粉糠山古墳|岐阜県大垣市 ~西濃を代表する前方後方墳~

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粉糠山古墳

 昼飯大塚古墳を見た後は、旧中山道を歩いてみたいと思います。

 赤坂方面オッケー。

 垂井方面オッケー。

 「史跡の里 青墓町」という標柱が現れました。

 標柱には「古墳 粉糠山」とありますが、古墳はもう少し先にあります。

 ここに書いてある通り、粉糠山(こぬかやま)古墳は、墳丘長が100mあり、前方後方墳では東海地方最大です。

 見えました。

 粉糠山古墳です。

 今回は街道から墳丘を一瞥するだけにしますが、2023年5月28日にAICTで訪れていますので、その時の写真とともに紹介します。

 旧中山道側とは反対方向からのアプローチです。

 説明板もあります。

 粉糠山古墳は、既述した通り、前方後方墳としては東海地方最大ですが、全国でも10番目の大きさになります。

 墳丘は墓地となっていますが、後方部の中心には墓はありません。

 昔はここにお堂か何かが建っていたような雰囲気です。

 後方部から前方部を見ます。

 こういう状況ですから、あまり古墳を楽しむことはできず、すぐに撤退しました。

 この粉糠山古墳と先ほど見た昼飯大塚古墳によって旧中山道は挟まれているような形です。

 ですから、昔から旅人はこの2つの大きな古墳を眺めながら歩いていたんですね。

 


白髭神社・延長寺

 では、旧中山道歩きの続きです。

 古そうな標柱が立っています。

 裏には「源朝長公御旧跡」とありますよ。

 朝長といえば、頼朝の次兄ですね。

 父の義朝は、平治元年(1159)12月に起こした「平治の乱」で敗北して東国へ敗走。それには、子の義平・朝長・頼朝らが付き従いましたが、大原(京都市左京区大原)の竜下越で比叡山衆徒と戦い、朝長は左腿に矢を受け負傷します。しかしその後も何とか逃げ、この地(美濃国青墓宿)に到着しました。

 昔の武士は飛び地状態で列島各地に縁があるのですが、青墓には義朝の妾がおり、人心地付くことができました。ところが、朝長は矢傷が悪化してしまい、これ以上逃げるのは無理だと悟り、足手まといにならないように父の義朝の手によって殺してもらったのです。

 その故事と縁がある場所なのでしょうか。

 鳥居が見えるので行ってみましょう。

 白髭神社です。

 うーん、由緒書きとかはないですねえ。

 神社の境内からお寺の屋根らしきものが見えるので行ってみます。

 やはり、隣にはお寺がありました。

 国府山という山号がいいですね。

 国府と関係がありそうですが、国衙跡まではここから直線距離で3.5㎞くらいあります。

 延長寺こそ、朝長と何か縁がありそうですが、ここも由緒書きの掲示はありません。

 ちなみに、朝長の墓はここから少し離れた山の中にあることを観光案内図を見て把握していますが、今日はとてもじゃないですが行けません。

 延長寺本堂。

 朝長旧跡とは何か分からないまま再び歩き始めます。

 


青墓の芦竹庵

 5分ほど歩くとまたなにやら現れました。

 おっと今度は義経です。

 ここで供養した兄とあるのは、朝長のことですね。

 五輪塔が並んでいます。

 照手姫の墓とあります。

 照手姫照手姫・・・うーん、どこかで聴いたことがあるけど思い出せない・・・。

 誰でしたっけ?

 また少し進むと、道端に「照手姫の水汲み井戸」を指し示す標識が立っていました。

 路から若干外れますが、見てしまったからには看過できない。

 ここですね。

 あ、そうだ、小栗判官がらみだった!

 ここに出てくる横山将監は、武蔵七党の横山氏で八王子を本拠にした武士ですね。

 昨年(2023年)11月のAICT「結城合戦」の現地講座の際、茨城県の小栗城跡を訪れました。

 その時に、参加者から横山氏が小栗氏に毒の入った酒を飲ませて・・・という話が出て、照手姫という名前が出たと思いますが、記憶違いだったらゴメンナサイ。

 ※註:帰宅後に、小栗城跡の説明板を読み返してみました。それによると、持氏との戦いに敗れた小栗氏は現在の大垣市を目指して逃れましたが、その途中で相州の横山氏の館で歓待を装った毒酒によって殺害されたとあります。

 

関連楽曲

『決戦、関ヶ原。』
作詞&作曲:稲用章
Vo:Saki(ボカロ) Gt&Key:稲用章

この日の探訪でインスピレーションを受けて制作した楽曲です。

 


 

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