金蓮寺・春王安王墓・池田輝政陣跡|岐阜県垂井町 ~結城合戦後の悲劇の地~


蒼野ヶ原(青墓)一里塚跡

 旧中山道とバイパスが交差する場所に「中山道散策マップ」が掲げられていました。

 まだそれほど歩いていないように思えますが、美濃赤坂駅に降り立ってから1時間45分ほど歩いています。

 引き続き、旧中山道を進みます。

 左手には象鼻山。

 あの場所にいる西軍諸隊にはまだ動く気配はありません(妄想)。

 一里塚発見!

 といっても、跡地です。

 ここには蒼野ヶ原(青墓)一里塚があったのです。

 ところで、この辺りには「毎月第3日曜日 家庭の日」という看板が掲げられています。第3日曜日はお父さんを含めて家族団らんで過ごしましょうということだと思います。

 とても良いことですね。

 とても良いことなのですが、私みたいに、いつも勝手気ままに好きなことをやっていたいという思考を持った人もいます。

 そういう人は結婚しない方がいいと思います。

 


垂井宿

 勝手気ままな私は、食事の時間も勝手気ままです。

 眠くなった時が即ち寝る時。

 腹が減った時が即ち食べる時。

 そろそろおやつにしようかな。

 コンビニで買っておいた「名古屋ドーナツ」を食べます。

 なんだこれ不思議な食感で美味い。

 もちもちしています。

 次にコンビニで見かけたら買い占めよう。

 「垂井町に入りました」

 カーナヴィのお姉さんの声が聴こえたような気がしました。

 いや、市区町村界を越えるたびに一々言われたらうるさくてたまりません。

 おっとキャプテン翼。

 キャプテン翼は、私が小学校5年生の時にテレヴィ化して、空前のサッカーブームが起きました。

 私もそれを機に、野球をやめてサッカーをするようになり、まあともかくサッカーが面白くてハマりました。ドリブルして登校する奇特な児童と化して、サッカーの本を買ってきて自分で練習カリキュラムを作って、無理矢理友達を巻き添えにして練習に励みました。

 そして、その流れで中学校ではサッカー部に所属しましたが、いくらサッカーが好きでも、毎日の夕方と日曜日はサッカーしかできないという生活には耐えきれず、すぐに幽霊部員と化してフェードアウトしていったのです。

 サッカー部に入ると、今日は早く家に帰って音楽が作りたいから練習行かない、とかは許されないんですよね。当たり前ですが。

 夏休みに部活を休んで海水浴に行ったらかなり攻撃を受けました。あーやだやだ。

 その後の人生でもそうなのですが、いくら好きでも得意でも、私は複数のことを同時にやっていきたい人なんですよね。一本に絞って大きな成果を目指す生き方はそれはそれで素晴らしいと思いますが、私は5つや10個の小さな成果を出したいと思う、志の低い人間です。

 さっき、おやつを食べましたが、時刻は11時を過ぎました。

 そろそろランチを食べても良い時間です。

 垂井駅近くに行けば食堂とかあるかな?

 ようやく垂井駅が近くなりました。

 相川を渡ると垂井宿です。

 なんかあんまり活気を感じない・・・

 食べ物屋さんは期待できないかもしれない。

 現在地を確認しましょう。

 ひとまず垂井駅を目指します。

 GoogleMapを見ても食べ物屋は見つけられず、歩いていても見当たりません。

 駅に着きましたが・・・

 地方の駅に来ると良くあるパターンで、やっぱり何もない・・・

 いや、立派な観光案内図はあるぞ!

 こっちにも!

 竹中半兵衛だっているぞ!

 「腹が減ったくらいでくじけるでない!」

 「半兵衛殿!お主、軍師であるならランチを食べる計略を授けてくれ!」

 というか、ちょっと座りたい。

 ずっと歩いていますからね。

 外のベンチでは寒くて休めないので、屋内の改札の前に行ってみます。

 おっと、ここにもありましたよ。

 戦況は東軍が優勢ですな。

 目論見通り、改札前にはベンチがありました。

 しかも自販機で好物のコーンスープが売っています。

 一先ずそれを飲みながら休憩。

 コーンはすべて回収できた。

 せっかく駅まで来たから、ここから関ヶ原駅まで電車を使って楽をしようかな、と一瞬思いましたが、実は先ほど行ってみたい場所が新たに思いついたのです。

 結城合戦で捕縛された春王・安王が処刑された金蓮寺と彼らの墓所です。

 歩いていたら、そういえば春王・安王はこの辺で殺害されたはずだな、と急に思い出し、調べたら垂井駅の近くにあるのです。

 ここで頑張らないとあとで後悔する。

 


金蓮寺

 再び歩き出します。

 踏切から垂井駅のホーム。

 もう、こういうのを見つけちゃうと一々引っ掛かります。

 宝篋印塔ですが、いつも見るのとデザインが違います。

 室町時代前半のものですから古いですね。

 金蓮寺に着きました。

 境内を見渡すと・・・

 あった!

 春王・安王が処刑された場所であることを示す石碑です。

 「足利春王丸安王丸処刑の旧蹟」とあります。

 ただしちょっと扱いが・・・

 何となく石碑が廃品のように扱われているような気がします。

 お寺にはお寺の考えがあるでしょうから文句は言えませんが悲しい。

 お寺の縁起が掲示されています。

 金蓮寺は、美濃国一宮・南宮金山彦神社の神宮寺だったんですね。

 室町時代から時宗ということですが、先ほどの石碑には「円覚寺派管長 朝比奈源書」とあります。

 ※註:円覚寺派なら臨済宗なのになぜかと思って調べたら、朝比奈源は、ドラマ『水戸黄門』や『大岡越前』などの題字を手がけた方で、細かいことは分かりませんが、晩年は独自の思想活動をしていたようです。

 山門。

 春王・安王の年齢に関しては正確なところは分かっていませんが、春王12歳、安王11歳という説があります。これは数え年ですから、今でいえば小学生です。

 そんな子供の首を斬り落とせるでしょうか。

 


春王・安王の墓

 では続いて、春王・安王の墓に向かいます。

 この辺のはずですが・・・

 なーんだ、池田輝政の陣跡と同じ場所だったのね!

 あそこがそうでしょう。

 一緒に並んでいます。

 左手に春王・安王の墓所があります。

 2つ並んでいる宝篋印塔が春王と安王の墓で大きいのは乳母の供養塔と伝えられています。

 ここに来られて感慨無量です。 

 ここでは春王は13歳となっていますね。

 中世の本を読んでいると、戦乱の後処理で子供が殺害されることが多いのですが、私は実は殺したと報告しておいて殺していないこともあるのではないかと思います。

 武士は人殺しを職業とした人たちですから残虐な印象があると思いますが、確かに戦いのときは悪鬼羅刹の殺人鬼に化します。しかし、戦いがない時は、良き家庭のパパであったりしてただの人ですから、戦闘モードから解放されたあとに、仕事とはいえ子供を殺すなんてできないと思う人がいても不思議ではありません。

 もちろん死刑執行自体はそれを専門とする職員がいたわけで、彼らは仕事として淡々と首を切り落とすだけで余計な感情は持たないかもしれませんが、そういう人に指示を出すのは上位権力者から処刑の命を受けたそれなりの身分の武士です。

 そういったそれなりの身分の人であれば、いたいけな子供に憐みの気持ちが生じ、うまく取り繕って上位権力者に報告する術くらいはあると思うのです。

 将来の禍根を絶つためといって殺すのは、お隣中国では当たり前かもしれませんが、日本では意外とそこまで極端にやらなかったのではないかと、最近では考えるようになっています。

 ところで、この場所のすぐ裏手には新幹線が走っています。

 私は数えきれないほどそこを新幹線で通過していますが、まさかこんな線路の近くに春王・安王の墓があったとは思っても見ませんでした。

 そういう意味でも感慨深いものがあります。

 なお、結城合戦に関しては、本サイトのこちらのページで簡単に解説しています。

 


池田輝政陣跡

 では続いて、池田輝政コーナーです。

 

 既述した通り、慶長5年(1600)9月14日の正午、家康は岡山(勝山)に着陣し、南東の大垣城方面を正面にして諸将が布陣しました。

 その日のうちに、「杭瀬川の戦」という小競り合いが起きましたが、その日の夜には家康は、「大坂城を攻めるつもりである」との情報をわざと流出させました。

 大垣城の諸将はそれを知って慌てました。島津義弘は、家康がまだ出発する前に三成から夜襲の許可を得ようとしました。義弘は、家康の兵たちは長い行軍のために疲れ切って寝ているとの報告を斥候から受けたため、自身の手勢のみでいいので攻撃したいと三成にお伺いを立てたのです。

 ところが、三成はその提案を一蹴します。そして、三成たちは19時に大垣城を出陣し、関ヶ原へ向かいました。その際のルートは旧中山道を通ると家康軍とぶつかる恐れがあるため、象鼻山の南から西に回って、狭隘な土地を四里も強行軍しました。しかも大雨に降られながらです。

 また、この移動途中に三成は単独で長束正家や安国寺恵瓊の陣を訪れて作戦を告げています。

 西軍の弱点は、強力なリーダーが不在な点で、三成は一応は代表者的立場ですが、総大将ではなく、一緒に戦う武将たちと比べて隔絶した身分ではありません。そういうこともあってか、とにかくマメに書状を送ったり、自ら動き回ってコミュニケーションをとったりして誰よりもたくさん働いている印象があります。とにかく必死なのです。

 三成は、師匠である秀吉の良いところを真似てコミュニケーションを多くして人びとを動かそうとしたのだと思いますが、秀吉と違っているのは、三成はあまり人に好かれるタイプではなかったところです。

 三成勢が慌てて大垣城を出発したとの情報をキャッチした東軍の西尾光教(曽根砦を守っていた)は、その情報を家康に伝えます。家康がその報告を聴いたのは午前2時、もちろん寝ていました。家康は飛び起き、諸将に出発の準備を指示し、布団の上で食事をかきこみます。

 家康の諸隊は午前3時から次々と出発し、西へ向かいます。その際に、南宮山とその麓に陣取る西軍に対する抑えとして、岐阜城攻略に功のあった池田輝政をこの場所に配置したのです。

 

関連楽曲

『決戦、関ヶ原。』
作詞&作曲:稲用章
Vo:Saki(ボカロ) Gt&Key:稲用章

この日の探訪でインスピレーションを受けて制作した楽曲です。

 




 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です