若宮八幡神社
それでは私も家康と同じように、前線に向けて押し出します。
普通、古戦場って地域の人たちから忌み嫌われたりするものですが、関ケ原町の場合は、関ヶ原合戦があまりにも著名なので古戦場を町おこしに利用しています。
「このまち、まるごと、古戦場。」
考えてみるとブラックなコピーですが好きです。
そういえば、複数の霊能者が言っていましたが、さまよっている霊は4~500年で成仏するそうで、最近関ヶ原で落ち武者の霊の目撃例が激減しているのは、一斉に成仏の時期を迎えているからだそうです。
ですから皆様、安心して関ヶ原へお出かけください。
神社がある。
八幡ですね。
ここに記されている通り、合戦の際には社殿が焼失しています。
関ヶ原合戦だけでなく、戦場になった場所では民家や社寺は、略奪された上に放火されるので気の毒です。ただ、一般人の家は略奪すると言っても食べ物が盗めればマシな方ですが、社寺の場合は仏像などの宝があることがあるので、そういうものを盗んでいって、後で市を立てて売ります。
兵隊たちは大して給料をもらえませんから、戦場で略奪して得たものが報酬のようなものなのです。食べ物も現地調達ですから極力盗みます。
本多忠勝陣跡
さて、これからがいよいよ主戦場ということになりますが、時刻はもう14時半です。関ケ原古戦場記念館の見学時間を考慮するとあまり時間がありません。
しかし、回り道をしてでも本多忠勝の陣跡だけは訪れたい。
テクテク歩いて行くと、入口がありました。
祠がありますよ。
ここだ。
周囲は完全に住宅地と化していますが、この一画だけ確保されています。
既述しましたが、8時の開戦時には、忠勝は守備的ミッドフィールダー的な位置にいました。
8時の開戦のあと、味方が意外と苦戦しているのを知り、また南宮山の毛利勢が相変わらず山から降りずに動かないことを確認した忠勝は、9時過ぎには宇喜多秀家や小西行長の部隊との戦いに加わりました。
忠勝は家康直属の立場で、手勢は500人と少ないですが、むしろそれくらいの人数の方がコンパクトに取り回しができますし、おそらく精兵が集まっていると思うので、忠勝としては戦いやすかったかもしれません。
実際、忠勝の部隊だけで90の首級を挙げたと伝わっています。最強部隊ですね。
説明板にある通り、生涯57度の戦いで怪我したことがなかったと言われており、武装も軽武装を好んだようです。それに比べて、同じ徳川四天王に名を連ねる猛将・井伊直政は重武装を好みましたが、怪我が多く、最後もこの戦いで受けた鉄砲傷が元で死にます。
私が過去にダスキンの仕事をしていて思ったのは、怪我をする人って本当に怪我ばっかりするのです。そういう卑近な例と合戦を比べるのはおかしなことかもしれませんが、怪我を呼ぶ人っているのです。
忠勝は怪我を呼ばなかった人ですが、このとき53歳。武勇抜群のため若い頃から有名で、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という言葉は良く知られています。本多平八とは忠勝のことで、家康は身分不相応なものを二つ持っていて、一つは唐の頭という珍しい兜で、もう一つは忠勝という意味です。
元亀3年(1572)、甲斐の武田信玄が西上作戦を開始し、途中に立ちはだかる家康を撃破して進むことにし、遠江の二俣城を攻略すべく兵を進めました。家康は、本多忠勝や内藤信成(家康の異母弟説あり)らを率いて、自身偵察に向かいます。
ところが、図らずも武田軍と遭遇してしまい、家康は驚いて退却します。そこで殿軍(しんがり)を務めたのが25歳の忠勝と28歳の信成です。場所は、一言坂という坂道を下った場所で、地形的にも不利な場所でした。しかも、そもそもが偵察目的で来ているため手勢も少ないです。そこに、猛将揃いの武田軍にあっても特に名の知られた馬場信春が攻撃を仕掛けてきました。
忠勝らは寡兵をもって粘りましたが、ついに耐えきれなくなり、自身らの背後に回った小杉左近の部隊を蹴散らして撤退しました。
殿軍の役目は、主力部隊が無事に撤退するまで時間稼ぎをすることで、最初から命を捨てて戦うことが期待されます。でも、忠勝らは主人を逃して、自分たちも逃れることができたのです。このとき小杉左近が忠勝の勇猛さを見て言ったのが上述の言葉とされます。
なお、戦国時代の話は、史実として裏付けが取れていない話が多いため、小杉左近が言ったというのも本当のところは分からないのですが、忠勝の人生を見ていると、家康の生涯でもっとも重要だった家臣の一人であることには間違いありません。
忠勝は、関ヶ原合戦後に桑名藩主となり、慶長19年(1614)の大坂冬の陣より前の慶長15年(1610)10月に63歳で病死しています。
関連楽曲
『決戦、関ヶ原。』
作詞&作曲:稲用章
Vo:Saki(ボカロ) Gt&Key:稲用章
この日の探訪でインスピレーションを受けて制作した楽曲です。