松平忠吉・井伊直政および田中吉政陣跡|岐阜県関ケ原町 ~最前線で奮戦した東軍諸将~【関ヶ原古戦場探訪レポート⑨】


松平忠吉・井伊直政陣跡

 ようやく関ヶ原駅に到達しました。

 駅舎の向かいには関ヶ原合戦をフィーチャーしたお土産屋さんがありますが、今日は定休日です。

 目指す古戦場記念館は線路の向こう側にあります。

 途中のフェンスにも沢山の看板が掲げられており、これを丁寧に読んでいくと30分くらい掛かりそうです。

 関ケ原町の力の入れようが分かりますね。

 跨線橋を渡ると、古戦場記念館が見えました。

 三成と家康の紋が見える建物が古戦場記念館で隣は町役場。

 両方とも立派な建物ですし、背後の山も綺麗でとても景観の良い場所です。

 関ヶ原は狭隘なイメージがあるのですが、この辺りは小さな盆地になっていて、バトルフィールドとして適しているように思えます。

 古戦場記念館に入る前に周囲の史跡を見ましょう。

 まずは、松平忠吉と井伊直政の陣跡。

 松平忠吉は、家康の四男。家康の沢山の子らの中ではそれほど知名度は無いかもしれませんが、徳川義直の前に尾張藩主になった人で、このとき21歳です。

 井伊直政は、徳川四天王の一人で武装を赤色で統一した「赤備え」で有名な猛将です。このとき40歳。

 直政の娘を忠吉が娶っていたため、直政には初陣の忠吉をサポートする任務もありました。

 一般に流布している説では、説明板に記されている通り、先鋒は福島正則に決まっていたのに、両者が抜け駆けをして宇喜多秀家隊に発砲したため、戦端が開かれたとされています。

 近年ではこういった戦いの推移に関しては、史料の見直しによって新たな分析が進んでいるわけですが、抜け駆け行為は武士なら大いにやりそうなことです。

 武士たちは戦いの際の功績によって収入アップがはかられますが、とくに一番槍は称賛されるわけです。

 下図の通り、8時頃に全軍の布陣が終わったときはこうなっていたわけですが、直政と忠吉はこの場所からチョロチョロッと進んで、正則隊の横をすり抜けて、秀家の前段部隊に発砲したわけです。

 さて、昼過ぎには西軍は崩壊し始めたのですが、唯一、島津義弘とその別動隊を率いる甥の豊久の部隊のみ戦いを続けていました。島津勢は東軍からの一斉攻撃を受け、義弘は切腹を考えたのですが思い留め、遥か遠い薩摩への帰還を目論み、伊勢街道から回って退却することに決めました。

 伊勢街道から退却するということは、家康本陣の目の前を通過するということで、普通ではあり得ないですが、義弘らはその選択をしたのです。

 豊久は討死しますが、義弘は何とか敵中突破を果たします。そして、わずかな手勢となって逃走していたところに追い付いたのが忠吉と直政です。ところが、忠吉は反撃にあって傷を負ってしまい、直政も鉄砲で狙撃されてしまいました。家康から追撃中止命令が来たのが14時半でした。

 なお、余談ですが、奈良県桜井市の大神神社の近くには、このとき義弘らを匿った平等寺があります。

奈良県桜井市・平等寺

 平等寺は大神神社の神宮寺だった寺です。

 初めて平等寺を訪れた時、島津家の家紋の旗がはためいていたので不思議に思ったのですが、境内の由緒書きにその理由が書いてありました。それによると義弘らは戦線離脱後、平等寺に入り、11月28日まで逗留しましたが、その間に薩摩と連絡を取り合って、帰国の段取りを整えたのでしょう。

 ところで、井伊家というと彦根城が有名ですが、直政は慶長7年(1602)2月、彦根城の築城の途中で関ヶ原合戦での鉄砲傷が元で亡くなっています。

彦根駅前の井伊直政像

 ですから、ひこにゃんを見ると直政を想起しますが、直政は彦根城に入っていないんですね。

 一方、関ヶ原合戦の時に21歳だった忠吉は、戦後、尾張・美濃52万石の大名として清須城に入りましたが、慶長12年(1607)3月に28歳で亡くなりました。世継ぎがいなかったため、弟の義直が継ぎました。

 


東首塚

 松平忠吉・井伊直政陣跡からシームレスに東首塚があります。

 「関ヶ原古戦場 附 徳川家康最初陣地 徳川家康最後陣地 石田三成陣地 岡山烽火場 大谷吉隆墓 東首塚 西首塚」という長い名称の国史跡です。

 ※註:上の写真には紫の光が写り込んでいます。心霊写真マニアの間では光の色で霊が怒っているとか何とか言う人がいますが、カメラが慣れている人にはこういうのは意図的に撮影することができて、写真に映った光の色は、霊とはまったく関係ありません。

 こちらは供養堂。

 反対側まで行ったら立派な門がありました。

 説明板に書いてあった唐門ですね。

 


田中吉政陣跡

 道路に出て歩いて行くと、今度は田中吉政の陣跡がありました。

 吉政は豊臣秀次の家老でしたが、文禄4年(1595)に秀次が自害させられたあとは、家康に接近していったようです。

 なお余談ですが、秀次が自害した際には、多くの家臣も連座して自害していますが、その中には桶狭間の戦いで今川義元に一番槍を付けた服部一忠も含まれています。吉政はお咎めなしで、反対に若干加増しています。

 関ヶ原合戦が開始した時点では、吉政は他の諸将よりも少し突出した位置にいました。

 説明板に記されている通り、逃走した三成を捕らえたのは旧知の吉政でした。

 吉政は、関ヶ原合戦後、筑後32万石を与えられ柳川城に居城しますが、八女市の福島城を支城として整備します。

 その際に、6世紀前半に筑紫君磐井が造った岩戸山古墳から石人石馬(石製表飾)を運び去り、石垣に転用したとされ、慶長14年(1609)2月に亡くなるのですが、八女市民の間では磐井の祟りによって吉政が不幸になったとの伝承があります。

 

 

関連楽曲

『決戦、関ヶ原。』
作詞&作曲:稲用章
Vo:Saki(ボカロ) Gt&Key:稲用章

この日の探訪でインスピレーションを受けて制作した楽曲です。

 

 

 

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