鶴見川流域の弥生・古墳時代史

最終更新日:2024年3月10日

 AICTでは、2024年1月28日と3月9日に東京都町田市の現地講座を行い、また2月18日には横浜市港北区・都筑区の現地講座を開催し、合計17名様のご参加を頂きました。両現地講座は鶴見川流域がテーマでしたので、ここで当該地域の弥生・古墳時代に関して、現地講座の際に実際に探訪した場所を中心に簡単にまとめてみようと思います。

 本ページに関連する遺跡の地図はこちらです(スマホでは見づらいですがご了承ください)。

地理院地図をベースに稲用が作成(クリックで拡大します)

 


本町田遺跡|東京都町田市

 本町田遺跡では、縄文時代前期の住居4棟と弥生時代中期の住居7棟が発掘調査され、現地は本町田遺跡公園として整備されて、縄文前期の建物と弥生中期の建物がそれぞれ1棟ずつ復元されているほか、地表面には遺構平面の表示があります。

 

 現地講座では両方の建物の中に入っていただき、縄文建築と弥生建築との構造上の違いを比較していただきました。ただし、当然のこととして建物の復元は推定上のものなので、それを考慮しないとならないのですが、それを前提として見た場合も、大きな違いの一つは、柱や梁です。

 縄文建物の柱は切り出してきた木の枝を払った程度のもので、木の又の部分を上手く利用して梁をかけたりしています。それに対して、弥生建物の柱は、鉄製のチョウナを使って角材に加工している点が大きく違います。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、本町田遺跡の弥生時代の遺構は中期であるという点です。一般的には関東地方で鉄器が本格的に使われ始めるのは、弥生時代中期後半とされます。ですから、弥生時代中期と言っても、後半であれば復元されている建物に近いテイストで建てられていた可能性がありますが、鉄器を使用しなければあのような木材加工はできません。

 なお、本町田遺跡にはガイダンス施設もあり、少量の遺物展示やパネル展示があり、無料の資料もいただけます。

 


椙山神社北遺跡|東京都町田市

 三輪小学校の開校に先立って発掘調査がされ、弥生時代後期の住居跡2棟と、乳幼児の甕棺墓などが見つかりました。

向かって左側に三輪小学校がある

 現地の説明板に掲載されている土器は、住居跡から見つかったもので、町田市考古資料室に展示してあります。

椙山神社北遺跡出土台付甕(町田市考古資料室にて撮影)

 説明板によると、この土器は長野県松本地方で作られた土器ということですが、今のところ私はこれ以上説明することができません。

 なお、椙山神社北遺跡からは、縄文時代中期・後期・晩期の土器片や古墳時代後期頃の住居跡も5棟みつかっています。

 


椙山神社(下三輪)

 椙山神社北遺跡は、その名の通り下三輪の椙山神社の隣にありますので、椙山神社にも訪れました。

 

 全国的にも縄文や弥生の遺跡と神社というのは関連性があると疑ってみる必要があります。

 現在の神道が弥生時代からあったということはあり得ませんが、そのルーツとなる信仰は、弥生時代からあったと考えています。もしかすると、縄文時代にまで遡る可能性もあるでしょう。その神社の信仰がどこまで遡れるかは、神社によって違うと考えられますが、こちらの椙山神社について考えてみます。

 椙山(杉山)神社は、鶴見川流域を信仰圏として、50社くらいあります。武蔵国六の宮であることから古代末から中世の頃に鶴見川流域に有力な武士がいた可能性が高いです。延喜式内社でもありますが、延喜式に掲載された本社が現在のどの杉山神社かは分かっておらず、本来の祭神も不明です。現在は、日本武尊や五十猛命が祭神であることが多いですが、もしそのルーツを古墳時代に求めるとすれば、本来の祭神は、古代鶴見川流域を治めていた王かもしれません。

 


小野神社(小野路)

 町田の現地講座では、小野路の小野神社も訪れました。

 

 現在、武蔵一宮と称しているのは大宮氷川神社ですが、多くの人たちが知っている通り、本来の一宮は小野神社です。ただし、小野神社と言っても、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅近くにある小野神社(2024年1月12日の現地講座で探訪)なのか小野路の小野神社なのか、研究者によって意見が食い違います。

 私自身もなかなか考えがまとまらないのですが、小野路の小野神社は、杉山神社と同じく鶴見川流域にあり、しかもその源流地域にあります。

 そう考えると、小野路の小野神社は、本来は「杉山グループ」だったように思えるのです。私はまだ杉山神社の調査はしていないので、今はまだ「そう思っている」程度なのですが、小野路の小野神社と下三輪の椙山神社の社紋は巴紋です。八幡神社の紋ですね。

下三輪の椙山神社

 では、聖蹟桜ヶ丘にある小野神社が一宮かというと、その場所は多摩川に近く、氾濫すればひとたまりもない場所です。そんな場所に古代から神社があったとは考えられないことから、怪しいなと思っていました。

聖蹟桜ヶ丘駅近くの小野神社

 ただ、元々の社地がすぐ近くの丘の上だったとしたら、現在地がここであっても構わないと思い始めました。

 ちなみに、聖蹟桜ヶ丘の小野神社は、鶴見川とは別の多摩川支流大栗川流域にあり、社紋は、いわゆる菊の御紋です。

 


大塚遺跡

 「大塚・歳勝土遺跡」の名称で、後述する歳勝土(さいかちど)遺跡と共に国史跡に指定されています。

 大塚遺跡は、横浜を代表する弥生集落跡、というより、関東を代表する弥生集落跡と言っても良く、列島各地の博物館でもよく名前が出てきますし、どうやら教科書にも載っているようで、全国的に有名な弥生時代の環濠集落跡です。

 歳勝土遺跡ともども弥生時代中期後葉の宮ノ台式期の遺跡です。しかし、短い期間で終焉を迎え、しかも異様なほどに焼失家屋が多い遺跡なのです(4分の1くらいが焼失家屋)。研究者によって実年代の評価は違いますが、私は一応、紀元前2世紀としておきます。その中でも前半の50年くらいの間でしょうか(石川日出志さんは紀元前1世紀としています)。2世代くらいしか村は存続しなかったようですが、資料によっては4世代くらい続いたと書かれています。

 宮ノ台期には鶴見川流域に大塚遺跡と同じように10個くらいの集落が突如として現れるのです(規模にはバラつきがありますが)。ところが、彼らがどこからやってきたのかが分かりません。土器の系譜を追っていくと、それ以前の白岩式という静岡の土器と共通するので、静岡からの移住かというと、ところがどっこい、そんな単純な話ではないのです。というのは、壺は白岩式と連続するのですが、甕はまったく違うからです。

 

 85棟の竪穴住居跡と10棟の高床式倉庫跡などが見つかっていますが、現状史跡公園として整備されているのは、実際の3分の1ほどの面積です。

 環濠集落の形状は「カシューナッツ形」と言われることがあります。下図の黒色で表示してある7棟が復元されており、消滅してしまった場所にあった遺構のY2HとY17がこのエリア内に復元展示されています。

現地説明板を撮影

 これらの遺構展示の中で特に注目すべきは、復元展示さているY17住居の遺構です。竪穴住居跡なのですが、溝が外へ向けてビローンと伸びているのです。この溝を尾状溝(びじょうこう)と言います。

 
 

 説明板には、通路であると断定的に記されていますが、念のため横浜市歴史博物館の学芸員にお尋ねしたところ、通路というのは一つの説であって、正確には「分からない」とのことでした。

 私も全国の弥生遺跡に行っていますが、他では見たことが無いです。お話を伺った学芸員の方によると、全国見渡しても、ここ以外には群馬に数例あるだけということでした。

 ちなみに、もっと後の時代だと、北部九州の渡来系の住居で似たものがあって、それは壁面にカマドを据え付けて、煙道として直線状の溝が設けられていますが、それだと時期が合わないし、大塚遺跡のものは直線ではなく曲がっているものもあります。

 なお、尾状溝が2本あるのは、時期の違う2つの住居が重なっているからです。

 また、遺構図を見ていると他にも面白いものがあって、Y86住居は環濠の外にあるのです。なんで、環濠の外に作ってしまったのか。あるいは、作らされてしまったのか。いろいろ考えると面白いですね。

 


歳勝土(さいかちど)遺跡

 大塚遺跡の墓域です。既述した通り、築造時期は大塚遺跡と同時期である弥生時代中期後葉、宮ノ台式期にあたり、25基の方形周溝墓が見つかっています。

 

 方形周溝墓は、四周する溝のブリッジの場所で分類する考え方があって、関東地方では、四隅にブリッジがあるタイプが最も古いとされ、歳勝土遺跡の方形周溝墓がまさにそうです。歳勝土遺跡で現状見られるものは土を盛って復元したもので、実際には各墓の中央部に主体部が1基あり、それが分かるように展示されているものもあります。

木棺が直葬された例

 関西の場合、中期の方形周溝墓は集団墓的様相を呈していて、墳丘上に複数の主体部を持ちます。それが後期になると単数埋葬に変化していくのですが、関東では最初から単数埋葬で、特別に限られた人物しか埋葬されなかったことが分かります。

 ところで、今まで私は神奈川県には弥生墳丘墓はないと思っていて、そういう説明をしてきましたがありました。東野台3号墳ですが、ただしすでに湮滅しています。研究者によっては、墳丘墓にするか周溝墓にするか意見が分かれると思いますが、どうやら墳丘墓っぽい。ただし、これは弥生時代の終わり頃です。

 実は中期中葉にも凄いものがあったのです。

 方形周溝墓なのですが、他者と隔絶した独特な方形周溝墓があったのです。

 普通の方形周溝墓は、群をなしており、歳勝土遺跡のように集落から徒歩数分のところに墓域を形成しています。

 ところが、例えば三殿台遺跡などは、そういう墓域を持ちつつも、環濠集落内にただ一基だけ他者と隔絶した大きさの方形周溝墓を構築しているのです。

 一辺が25mあったりしますからかなり大きい。

 しかもそういうのは、一つの河川流域に一基くらいの割合で、かなり限られています。

 ですから、北部九州に「王」が誕生した弥生時代中期中葉には、なんと横浜近辺にも首長級の人物がいたといえるのです。これから私は彼らのことを「王」として積極的にプロデュースしていこうかと思っております。

 

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新羽南古墳跡|横浜市港北区

 太田道灌が小机城を攻めた時に付城を築いたとされる亀甲山は、新羽(にっぱ)浅間神社遺跡の中に含まれています。そこは、縄文時代中期から古墳時代前期にかけての複合遺跡で、神奈川県内では類例の少ない弥生時代中期初頭の土器棺墓も見つかっています。

 新羽浅間神社遺跡は、開発によって丘ごと削られてしまい、神社自体も浅間神社なのに今では平地にあります。そして、その北側の高い場所には、新羽南古墳がありました。現状では横浜市内最古の古墳とされ、主体部からは木棺の形跡が見つかり、形状は不明ですが、20mほどの墳丘を持ち、3世紀後半の築造です。

丘の上に工場のような建物が見えるがそのあたりに古墳があった

 ただ、20mという大きさで果たして古墳といえるかどうかですが、これがもし3世紀前半の築造でしたら、「前方後方形周溝墓」と呼ばれる可能性が高いです。しかし、時期がすでに3世紀後半の古墳時代であるとすれば、小さくても古墳と呼ばれると思います。

 

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加瀬白山古墳跡|神奈川県川崎市幸区

 加瀬白山古墳は、単に白山古墳と称されることもあります。まだ現地講座では訪れていませんが、鶴見川流域の古墳時代を語る上で外せない古墳です。鶴見川支流の矢上川左岸にある古墳で、多摩川と近いため、東京都大田区から世田谷区にかけて展開する荏原台古墳群と関連させて、同じ首長墓系列として語る研究者もいますが、別個のものとして考える研究者もいます。

 白山古墳は、加瀬台古墳群の1基として数えられる古墳で、墳丘長87mの大型前方後円墳です。築造時期は4世紀後半とされます。白山古墳を含む加瀬台古墳群は、夢見ヶ崎動物公園周辺に展開しています。

 
夢見ヶ崎動物公園 
 

 古墳を見に行くついでに動物たちの生態を観察するのも面白いと思いますが、加瀬台古墳群の全体像はこちらです。

 加瀬台古墳群は11基の古墳からなり、そのうち9基の古墳は、動物園がある丘の上にありますが(一部は湮滅)、西側にあった白山古墳と19mの円墳・第六天古墳は湮滅しています。

 ただし、湮滅したといっても、白山古墳の方は地形図で見ても実際に現地を見てみても分かりますが、完全湮滅ではなく、墳丘は少し残っているようです。

 白山古墳の場所はお屋敷があって立ち入ることができませんが、公園の広場に実際の古墳の大きさがイメージできるように円墳の7号墳とともに地表面表示があります。

 

 

 

 白山古墳は、昭和12年(1937)に発掘調査され、後円部には木炭槨が1基、粘土槨が2基、前方部には粘土槨が1基ありました。そのうちの木炭槨からは三角縁神獣鏡や内行花文鏡などが見つかっており、三角縁神獣鏡は、京都府・椿井大塚山古墳、山口県・竹嶋古墳、福岡県・神蔵古墳出土鏡と同笵鏡です。

白山古墳出土・三角縁神獣鏡(大田区立郷土博物館にて撮影)
白山古墳出土・内行花文鏡(大田区立郷土博物館にて撮影)


 第六天古墳は、よくある前方後円墳のすぐ近くに築造されたほぼ同時期の円墳、というものではなく、横穴式石室を備えた7世紀後半の円墳です。昭和12年の発掘調査では、勾玉や金銅製鈴などの副葬品とともに11体分の遺骨が見つかりましたが、一つの横穴式石室に2桁という大量の埋葬が見つかった例は少ないと思われます。

 公園周辺に築造された9基の古墳の正体は完全に分かっているわけではありません。

2号墳
9号墳
天照皇大神の社殿は7号墳の上に乗る

 3号墳は7世紀後半に築かれた横穴式石室墓で、昭和26年(1951)の発掘調査では、成人男性の人骨片が鉄釘や麻織物の断片とともに見つかりました。また、4号墳は5世紀後半に築造された円墳で、獣身鏡2面と鉄斧が出土したといわれています。

 なお、夢見ヶ崎という名前の由来は、太田道灌がこの地に築城しようとして構築した陣で就寝した際、鷲に兜を持っていかれる夢を見たため、縁起が悪いということで諦めたという伝承によります。道灌は結局、今の江戸城の場所に築城することになったとされますが、これは俗説であって、当時の政治情勢から考えると、戦略的には江戸城の場所の方が間違いなく築城に適しています。

 

 

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観音松古墳跡|神奈川県横浜市青葉区

 観音松古墳もまだ現地講座では訪れていませんが、やはり鶴見川流域の古墳時代を語る上で外せない古墳です。ただし、墳丘はすでにありません。鶴見川支流の矢上川右岸にあった古墳で、白山古墳同様、位置的には多摩川と近いため、荏原台古墳群と同じ首長墓系列とする考えもあります。

矢上川(観音松古墳は右側の丘の上にあった)

 観音松古墳の築造期は4世紀後半。おおむね東北東を向いた古墳で、後円部の墳頂からは主軸とほぼ平行に中央と南の2基の埋葬主体が見つかっています。2基とも粘土槨で、うち中央粘土槨は割竹形木棺であったと想定されています。

 副葬品は中央粘土槨から内行花文鏡を含めて多数出土しています。内行花文鏡は山梨県・甲斐銚子塚古墳出土のものと同じ鏡式とされ、墳丘形態も似ているとの指摘があります。

白山古墳出土・玉類(大田区立郷土博物館にて撮影)

 なお、観音松古墳跡の近くにある日吉台2号墳は出現期古墳の可能性があります。

 


稲荷前古墳群|神奈川県横浜市青葉区

 4世紀後半には、鶴見川を18㎞ほど遡った地点で、稲荷前古墳群という規模の大きい古墳群の築造が始まりました。

 確認されている古墳は下図の通りで、前方後円墳が2基、前方後方墳が1基、円墳が4基、方墳が3基の古墳10基と、横穴墓が合計9基です。

現地説明板を撮影

 ただし、これらのうち現存しているのは、15~17号墳の3基だけです。あとは住宅地として開発された時に、山もろとも完膚なきまでに破壊されました。

 

 現地説明板を元に、築造順を示すと以下の通りです(築造時期が判明している古墳のみ)。

 ・4世紀後半 16号墳(前方後方墳・37.5m)、6号墳(前方後円墳・32m)
 ・5世紀初頭 1号墳(前方後円墳・46m)
 ・5世紀末あるいは6世紀前半 5号墳(円墳・11m)
 ・6世紀後半 14号墳(方墳・10m)
 ・6世紀末 13号墳(円墳・16m)
 ・7世紀 横穴墓群

 現存する15号墳と17号墳の築造時期は不明のようで、15号墳は一辺約12mの方墳です。

16号墳墳頂から15号墳を見る

 

16号墳墳頂から17号墳を見る(木々に囲まれた暗い部分が17号墳)

 既述した白山古墳と観音松古墳、それに荏原台古墳群を含めてストーリーを想定してみると、3世紀後半の時点で、多摩川左岸はすでにヤマト王権の息がかかっていました。その後、ヤマト王権は多摩川右岸に調略の手を伸ばし、4世紀後半には鶴見川流域でも河口に近い場所は影響下に置くことができ、その地の王は、白山古墳、そして観音松古墳というように、前方後円墳を築造しました。

 こう考えると、白山古墳の造営時期はよくいわれている4世紀後半ではなく、椿井大塚山古墳出土鏡と同范の三角縁神獣鏡を持っていることもあり、もっと古いように思えます。

 それはそれとして、4世紀後半に鶴見川河口域の王を影響下に収めたヤマト王権はすぐさま鶴見川を遡上して、「都筑の王」に調略の手を伸ばします。それによって、一応はヤマト王権のフランチャイズに加盟したもののまだ独立性の高かった王は、後述する通り、独特な形状の稲荷前16号墳を築造しましたが、ヤマト王権は「都筑の王」とは別に、彼の弟かあるいは重臣的立場だった人物を取り立て、前方後円墳の6号墳を築かせます。

15号墳墳頂から16号墳を見る

 そして、その次代には完全にヤマト王権の影響下に組み込まれて、中期古墳である1号墳が築造されました。

 以上のようなストーリーが考えられるわけですが、とくに興味深いのは、16号墳の形状です。下図は、説明板に掲載された墳丘図です。

現地説明板を撮影 

 前方後方墳といいつつも、説明板に「正方形をした2つの墳丘を撥形をしたくびれ部で連結をした特異な形」とあるように、奇妙な形をしています。

 多分、古墳を見慣れた人ほど「何かの間違いではないか」と考えると思いますが、図を見ると墳丘の要所にトレンチを開けて、きちんと形状を確認していることが分かるため、この形状で良いのではないかと思います。

 全国の古墳を見ていると、ちょっと変わった形の古墳にたまに出くわします。何でもそうですが、例外はつきものです。

 ただし、図をよく見ると、北側の15号墳の南側の周溝のラインが合っていません。こういう不可解な点もあるため、この図が本当に信頼できるか微妙な点も残っているのですが、ひとまず、横浜市にはこういう面白い形をした古墳があるということを覚えておくと良いと思います。

 上図には、土器出土地点とありますが、まだ円筒埴輪は立てられおらず、底部穿孔壺が見つかっています。

 その底部穿孔壺を見てみたいのですが、いまだ実見できていません。ただし、横浜市歴史博物館には、稲荷前1号墳から出土した管玉とガラス玉が展示されています。 

稲荷前1号墳出土の管玉とガラス玉(横浜市歴史博物館にて撮影)

 ひっそりと展示してあるため、気づかない人もいるかもしれません。

 墳丘からの眺めはとても良いので、眺望好きの方にもおすすめの古墳です。

 

 

 つづいて、町田市内の横穴墓について述べたいところですが、力尽きました・・・

 

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