弥生時代後期における遠江から南関東への人の移住

最終更新日:2024年3月21日

 関東地方に築造された出現期の前方後方墳は、濃尾勢力が関東に進出して築造したものが多いと考えられることは周知の通りです。濃尾勢力は、伊勢湾岸勢力と呼ぶこともでき、濃尾平野および伊勢湾岸地域で共通の文化圏を形成していた人びとで、便宜的に濃尾勢力と呼んでいます。

 弥生時代後期、どこかに濃尾勢力の中心となる都のような大規模拠点集落があって、そこが全体を支配していたという様相は見えてこず、各地の集落の首長たちが横並びに連合を組んでいた可能性が高いですが、そういった連合が結成されていた確実な証拠もありません。もし、邪馬台国が奈良にあったとしても(その可能性は低いですが)、狗奴国は濃尾勢力ではないでしょう。

 私の活動目標の一つは、関東地方の古墳時代のはじまりを解明して皆さんに分かりやすく説明することですが、そのためには、古墳造営の前段階の弥生時代後期における東海地方の動向を明らかにする必要があります。しかし、それは簡単な仕事ではありません。まずは、現状で私自身が理解している範囲で整理してみます。

 弥生時代後期の濃尾平野には国家の都と呼べるような遺跡はありませんが、大規模集落跡は見つかっています。愛知県清須市の朝日遺跡はとくに著名で、弥生時代前期に集落の形成が始まり、中期には巨大な環濠集落となり、そして後期を経て古墳時代前期に衰退した集落跡を中心とした遺跡です。クラツーでもAICTでも何度も案内しました。

朝日遺跡

 朝日遺跡を含めて、弥生時代後期の濃尾平野では山中式土器が使われていました。朝日遺跡からは素敵な土器が沢山出土しており、朝日遺跡ミュージアムに展示してあります。

朝日遺跡ミュージアムにて撮影

 「パレス・スタイル土器」と呼ばれる赤採土器の優品も出土しており、これも山中式土器です。

朝日遺跡ミュージアムにて撮影

 山中式土器は、弥生時代後期の前半、三河や西遠江まで勢力範囲を広げました。後期後半になると、欠山式土器が造られ、欠山式の最後のⅢ期になると、有名なS字状口縁台付甕(S字甕)が出現します。

 この山中~欠山式の集落を西遠江で探すと、浜松市の伊場遺跡が有名です。

伊場遺跡の環濠の展示
伊場遺跡想像図(浜松市博物館にて撮影)

 伊場遺跡の出土遺物は、浜松市博物館に展示されており、非常に珍しい木製の甲(よろい)の復元品もあります。AICTでは2度訪れています。

伊場遺跡出土・木製甲(復元)(浜松市博物館にて撮影)
着装イメージ

 このように西遠江までは、山中~欠山式土器文化圏なのですが、同じ遠江国でも、天竜川の東側の東遠江は、ガラッと土器の様相が変わります。東遠江は、菊川式土器の文化圏なのです。

 文化の違いは例えば銅鐸です。遠江は、三遠式銅鐸で有名ですが、「三遠式」の意味はその名の通り、三河と遠江という意味です。銅鐸文化圏は西は出雲から東は天竜川までで、天竜川の東岸でも数例見つかっているもののそこまでです(ただし近年では北部九州も銅鐸文化圏ではないかとの説が出てきています)。ちなみに、浜松市は銅鐸出土地点の数では日本一の自治体です。

浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館にて撮影

 弥生時代後期の東海地方には、大きく分けると、このように山中~欠山式土器の文化圏と菊川式土器の文化圏があり、その境界は天竜川でした。川というものは文化の交流を促すことが多いのですが、全国を見ているとたまに文化を遮断する川というものが存在することに気づきます。天竜川は見事に文化を遮断してしまっています。

 古墳が造られる前段階の弥生時代後期の南関東には、山中~欠山式勢力(以降、山中式勢力と称す)と菊川式勢力が進出しており、山中式勢力は、主として相模川流域(上流からは八王子盆地に進出)と相模湾沿岸、それに鶴見川流域に勢力を扶植し、菊川式勢力は、主として東京都の武蔵野台地に進出しました。両勢力が混ざっている地点もありますが、結構はっきりと住み分けができています。

 山中式勢力の集落遺跡としては、神奈川県綾瀬市・神崎遺跡がとくに著名で、こちらもクラツーやAICTで何度か案内しました。

神崎遺跡

 神崎遺跡から出土した土器の9割(文献によっては95%)が外来系土器とされており、そのほとんどは、山中式土器です。

 そしてその土器は、先述した浜松市の伊場遺跡の土器にそっくりで、伊場遺跡の人びとが神崎遺跡に進出した可能性があります。

 濃尾勢力が南関東に進出して古墳を造営するよりも少し前(数十年から100年くらい前)、こういった動きがあったわけですが、問題は人びとの大量移住の理由です。

 弥生時代後期は全国的に人の移動が激しい時期です。古墳時代になると日本列島の多くの場所で文化が共通化していくのですが、その前段階で多彩な文化が混ざり合ったのです。遠江の人びとの南関東への移動は汎列島的なムーヴメントのひとつなわけですが、考古学的に見ても遠江での人口増加が伺えるため、食い扶持を減らすために南関東への植民を開始したとも考えられます。

 しかし、それだけでなく、後期前半末(山中Ⅲ式2段階)には急激な集落の再編が看取され、群集土坑(大量の穴=貯蔵穴か?)の築造もあるため、社会が不安定になったことも移住の原因だと考えられます。

 いわゆる「倭国大乱」の時期にあたるため、社会的緊張が移住の背景にあったと考えられるわけです。

 資料館などに展示してあると、必ず皆さんに「これを見てください!」と喚起する「S字甕」を携えた濃尾勢力が大挙して関東地方に押し寄せ、古墳を造りまくるのはこの後のことです。

 

参考文献

・『関東における古墳出現期の変革』 比田井克仁/著
・『シリーズ「遺跡を学ぶ088」 東西弥生文化の結節点 朝日遺跡』 原田幹/著
・『伊場遺跡と弥生時代後期の文化』 浜松市/編



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