青木遺跡|島根県出雲市【AICT開催レポート】第142次現地講座「古代の山陰に君臨した王たちの実像を追う 出雲と石見の古代史 出雲後編」その1

 2024年4月に開催した出雲の現地講座の後編では、初日の最後に出雲市の青木遺跡を訪れました。到着したのは17時半過ぎです。

 青木遺跡は、バイパス改良工事に伴って調査がされ、弥生時代の墳墓や律令時代の建物跡などが検出されました。概要は現地説明板をご覧ください。

 

 説明板での説明の比率が奈良・平安に高いことから、そちらの時代の方がクローズアップされているようですが、本稿では弥生時代について述べます(なお、奈良平安時代の遺物としては貴重な木簡が100点近く出ており、神像も興味深いです)。

 出雲平野では、弥生中期中葉に人口が増え、生産力が向上したことが各地の遺跡の内容から分かりますが、当然ながらそれを統括する人物が現れたことが想定でき、実際に首長墓と見られる墓が現れます。

 そのもっとも古いものが中野美保遺跡における中期中葉の小規模な方形貼石墓で、同遺跡では後期後葉になると一辺14~15mの四隅突出型墳丘墓(以降「よすみ」と記す)が築かれました。

 中野美保遺跡の中期中葉の方形貼石墓に続き、青木遺跡では中期後葉から小規模な貼石墓とともによすみが築かれ、後期後葉には中規模のよすみが築造されます。

 青木遺跡では、弥生時代中期中葉から古墳時代初頭にかけての墓が12基検出されました。そのうち、よすみであることが確実な墓は4基で、その中で最も古い中期後葉に築造された4号墓の墳丘が現地で復元されています。

 

 ただし、説明板は滅亡状態です。

 

 4号墓は、よすみではありますが、まだ突出部は発達していません。

 

 この程度の突出で、よすみと認めて良いのかは議論があるようですが、『青木遺跡Ⅱ(弥生~平安時代編)』(島根県教育委員会/編)では、「単に隅部に石を付け足して突出させるのではなく、墳丘斜面が交わる高い位置から一連の構造物が飛び出す、という点で四隅突出型墳丘墓の構造原理と共通する。これはいわゆる方形貼石墓とは一線を画す、明確かつ決定的な違いである」として、よすみとして認めています。

 4号墓は調査範囲の関係で、全体の大きさは分かっていません。よすみは基本的に長方形ですが、現地で見ると長方形過ぎるのはそのせいです。大きさは、東西方向が分からないものの、南北方向は突出部を含めて17mあり、出雲地方の弥生時代中期後葉の墓としては突出した規模を持っています。

 惜しむらくは、調査できたのが東西方向では3mほどであることで、埋葬施設は一基も見つかっていません。出雲地方のこの時代の墳墓であれば、墳丘上に多数の埋葬があっても良さそうですが、何とも言えません。

 現地で復元を見ると、貼石がゴロッとしていて、後期後半に築造された西谷墳墓群のよすみと随分雰囲気が違うことに気づきます。

 青木遺跡4号墓では、斜面にのみ貼石がなされ、麓の部分に水平方向で敷石の敷設や、立石を並べた形跡はありません。こういうことにもプリミティヴさが伺えます。

 写真で見てもらえば分かる通り、貼石というより、まるで城の石垣ですね。

 

 墳丘規模が全然違いますが、下が復元された西谷2号墓です。

 

 青木遺跡4号墓は、出雲最古級よすみですが、同じくらい古いものは、広島県三次市に数基あります。例えば、宗祐池西1号墓は、突出部の構造が青木4号墓と似ており、それが最古級のよすみの特徴と言えましょう。

 よすみのルーツについては、三次盆地との説が強いですが、青木4号墓の存在からすると、出雲平野もまた捨てがたいです。

代表的なよすみの編年(島根県立古代出雲歴史博物館にて撮影)

 三次盆地は今でこそ広島県ですから、なんとなく瀬戸内海側のイメージがあるかもしれませんが、江の川を通じて、日本海側の文化圏に入ります。そのため、三次盆地に現れたよすみが、河川流域を伝って日本海側に伝播したと考えたくなりますが、江の川の下流は石見であって出雲ではないのです。そして、まだ私は調べられていませんが、石見にはよすみのイメージがありません。

 そう考えると、三次盆地と出雲平野は別文化圏で、同時多発的に似た形状の墳墓が発生した可能性もでてくるわけですが、それにしては突出部の特徴が似ていることもあって簡単に割り切ることができません。

 よすみのルーツに関しては、7月に開催する広島の現地講座の際に三次盆地を訪れますので、その時にもう少し深く考察してみましょう。

 なお、青木遺跡の横には一畑電車北松江線が走っていますが、説明中に突如として現れたため良い写真が撮れませんでした。

 

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