銅鐸あれこれ

最終更新日:2024年4月29日

 古代史をやっていると様々な考古遺物に興味を持ちます。しかし、個人的に今一知識が深まらないものもあって、その一つが銅鐸です。

 銅鐸について今まで突っ込んで考えてこなかった理由としては、私が坂東の人間だからでしょう。関東地方は銅鐸の文化圏ではないため、関東各地の博物館や郷土資料館などを見学しても銅鐸の展示はほとんどありません。

 また、西日本に出かけて行った時には当然対面する機会が多いのですが、意外と写真撮影がNGなこともあって、撮影可能としても大きい銅鐸になるとケースが反射してうまく写真が撮れなかったりします。複製品の展示も多いですし、こういうことも銅鐸に対するモチヴェーションが上がらなかった要因だと思います。

 ということで、今までは気分が乗らなかったのですが、先日、AICTで浜松に行って銅鐸を見て、そのあと久しぶりに出雲に行ったらちょっと銅鐸気分になってきました。

 関東地方ではあまりお目に掛かれない銅鐸ですが、トーハクや全国各地で発掘調査を行っている大学の博物館には少し展示があります。

 ひとまず、手元にある写真を羅列してみます。

 ※なお、各施設は展示替えがあるため、今現在以下の遺物が見られるかは分かりません。

 まずは、トーハク平成館です。

 キャプションには、「御所市名柄字田中出土 外縁付鈕2式銅鐸」とあります。

 

 まず、出土地ですが、単に地名が書いてあるだけで遺跡名がありません。もしかすると、正確な出土地点が分からなくなっているのかもしれません。

 銅鐸の部分を大きく2つに分けると、上の部分の把手のような薄っぺらい部分を(ちゅう)と呼び、膨らんでいる本体部分を(み)と呼びます。外縁付鈕2式というのは型式のことで、この場合はその名の通り、鈕に外縁が付いています。

 銅鐸を大雑把に古い順から並べると、最古(弥生前期)のものを菱環鈕式と呼び、その次に古い弥生中期の物が外縁付鈕式です。2式と言った場合は、さらにそれを細分化した場合の2番目の物です。

 展示されているものは古めかしい感じがしますが、実際に銅鐸の中では古い方なんですね。

 ※すぐに菱環鈕式の銅鐸の写真が見つけられなかったので載せませんが、上の写真を見ると鈕の部分が内側と外側に分かれているのが分かるでしょうか。内側の部分が菱環鈕で、外側の部分が外縁です。真横から見ると内側と外側は厚みが違います。

 外縁付鈕式につづいて、中期後半から後期前半にかけては、扁平鈕式が造られました。

 伝香川県出土の銅鐸です。

 

 身全体の文様を見ると、四角く区画されているのが分かります。片面の区画の数で言うと、これは六区と呼びます。他に、四区や八区もあります。こういう区画されている文様を袈裟襷文(けさだすきもん)と呼びます。一方、最初の物は流水文と呼びます。銅鐸の身の部分の文様は大きくこの二つに分かれます。

 つづいては、いかにも銅鐸!といえるような立派な銅鐸です。

 大岩山(後述)出土の突線鈕5式銅鐸です。

 

 写真だと大きさが分からないので申し訳ないですが、こちらは高さ134.7㎝、重さ45.47㎏あって、現存するものとしては日本最大の銅鐸です。

 身の部分には八区あって、伝香川県出土銅鐸と違うのは、こちらには区画の中に絵がありません。

 身の両サイドには(ひれ)がありますが、そこに飾耳があるのも特徴です。

 既述した通り、銅鐸を古い順に編年すると、最古(前期)には菱環鈕式が造られ、その次(中期)に外縁付鈕式が造られ、そして中期後半から後期前半には、扁平鈕式が造られ、最後の弥生時代後半にはこの突線鈕式が造られます。

 この銅鐸は、その突線鈕式をさらに細分化した時の5式で、最新の銅鐸です。この見事な銅鐸の製作をもって、銅鐸祭祀は日本から突如として消滅しました。

 出土地の大岩山は滋賀県野洲市にあり、合計24個の銅鐸が見つかっており、一つの場所から出た数としては、島根県雲南市の加茂岩倉遺跡の39個についで日本で2番目です。

 なお、野洲市には銅鐸博物館(野洲市歴史民俗資料館)がありますが、展示室内は写真撮影NGなので非常に残念です。

銅鐸博物館のエントランス(これの本物が上述のトーハク平成館展示銅鐸)

 トーハク平成館には、もう一つ立派な銅鐸がありました。

 川西市加茂1丁目15出土の突線鈕5式銅鐸です。

 

 一見、さきほどの銅鐸と見分けがつきませんが、同じ頃に制作された銅鐸です。

 ではつぎに、渋谷区の國學院大學博物館を見てみましょう。

 手元には1つだけ写真がありました。

 

 複製品ですが、伝大岩山遺跡出土の袈裟襷文銅鐸です。

 突線鈕1式ですので、突線鈕式の中では最古段階に当たります。

 大岩山遺跡の調査は2度行われており、最初は明治14年(1881)のことで、そのとき出土した銅鐸は行方が分からなくなっているものがあるようです。そんなこともあり、この銅鐸は「大岩山で出土した可能性が指摘されている」とされるに留まっています。

 では最後は、千代田区の明治大学博物館です。

 3個の銅鐸が展示されていますが、私は明大博物館には何度も行っているのに、手元の写真を見たら13年前に初めて行ったときしか撮影していません。私が今まで銅鐸に関心が無かったことの表れですね。

 四区袈裟襷文銅鐸。

 

 こちらも四区袈裟襷文銅鐸。突線鈕式です。

 

 これら2個は出土地が書いてありません(キャプションには書いていない)。

 そして、こちらは、伝福井県出土というかなり大雑把な出土地ですが、流水文銅鐸で、外縁付鈕式です。

 

 以上、ざっと銅鐸について述べました。

 今回は、畿内式銅鐸と三遠式銅鐸との違いなどは述べていません。また機会があればもう少し詳しく書きたいと思います。



 



 

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