江戸城和田倉門・日比谷見附跡|東京都千代田区 ~第97次AICT 開催報告 その1~

 AICTでは、2023年6月10日(土)に、「江戸城を五街道から攻める」シリーズの最終回として、「江戸城から東海道を攻め下る」を開催しました。

 

 今までは、ゴールを江戸城本丸にしていたのですが、その最大の問題点として、打ち上げの場所がないことが挙げられました。そのため、今回は今までと趣向を変えて、江戸城を出発地点にしてみたのです。

 江戸城についてはとくに第3回の時に詳しく説明できたので、私的には心残りはありません。

 梅雨時の開催でしたので天候が心配でしたが、蒸し暑かったものの、雨に降られずにそんなに悪くもないコンディションで開催することができました。

 

 


江戸城 和田倉門跡

 今日は日比谷公園の北東角にある日比谷見附跡に10時集合にしているので、朝は余裕があります。

 都心であればもっと早い集合時間でも良いのですが、もしかすると郊外にお住まいの方の参加があるかなと思い、遅めにしています。それと、物理的に歩く時間を短くすることによって、参加者の歩く負担を下げる狙いもあります。

 9時過ぎに東京駅に到着し、散歩がてら集合場所へ向かいます。

 東京駅の丸の内口は、今の時間はまだそれほど混雑していませんが、今日は土曜日ですから、これから沢山の観光客が訪れるんじゃないでしょうか。

 
 

 丸の内駅前広場から、行幸通り方面にある江戸城を見ます。

 

 では、ここで本日歩く場所を確認しておきます。まずは、日比谷見附跡から途中の芝丸山古墳まで。

稲用章作成(江戸城内については未記入の部分もあります)

 東京駅の丸の内駅前広場から行幸通り方向を見ると、上の写真の通り、江戸城の緑が見えます。それを目指してまっすぐ歩いて行くと外濠に架かる橋を知らないうちに自然と渡って行きますが、その部分は、江戸期には橋はありません。上の地図の和田倉門と馬場先門の間にある広い橋のことです。

 とりあえず、大名小路曲輪跡を江戸城の中心地へ向かって歩きます。ちなみに「大名小路」というだけあって、『江戸城 その全貌と歴史』(西ヶ谷恭弘/著)によると、「慶長江戸図」には、蒲生秀行・池田輝政・溝口秀勝・新庄直定・京極高次・浅野幸長・福島正則・九鬼守隆・細川忠利・堀直重・蜂須賀家政・寺沢広高・山内一豊・森忠政という錚々たるメンバーの屋敷が軒を連ねている様子が描かれています。

 名前を入力しているだけでワクワクするような面子です(以降、江戸城についての説明は主として該書を参照しています)。

 そういえば今まで、和田倉門っていつもスルーしていました。せっかくなので今日は見てみようかな。

 

 なぜかこれまでちゃんと見たことのなかった和田倉門。

 素敵な木橋が架かっていますが、現在では木橋は、江戸城にはここと平川門の前と弁慶橋の3つしかありません。もちろん往時のものではありませんが、今となっては貴重な存在です。

 

  和田倉門も桝形になっており、今見られるものは、元和6年(1620)の改修によってできたものですが、今は城門はありません。

 

 橋を渡った先に、かつては二の門の高麗門がありました。

 桝形内に入ると、江戸城にしてはめずらしく左手に曲がります。

 

 かつてはここに一の門の渡櫓門があったわけですが、その跡から城内を見ます。

 

 渡櫓門&高麗門の組み合わせは江戸城でもデファクトなので、今までも随所で見て来ていますね。

 二の門側。

 

 渡櫓門や高麗門と左右の塀は、関東大震災によって崩落しました。でも、部材は保管されているそうで、将来的に復元することがあれば利用されるでしょう。

 和田倉門をくぐると、西の丸下曲輪に入ります。和田倉噴水公園と呼ばれている場所で、皇居外苑の一部になります。

 さきほど錚々たる大名たちの名前を列挙しましたが、彼らが内郭(城の中心部)へ赴くときは、大手門を通って三の丸に入りました。でも、大名クラスより低い身分の武士たちは、和田倉門を通って西の丸下曲輪を通り、桔梗門から三の丸に入ったのです。身分が違うと歩く場所やくぐる門も違うのだ。

 西の丸下曲輪に入ると西側正面には巽(たつみ)櫓とその奥に富士見櫓が見えます。

 

 おっと、時間が経つのが意外と早い。

 巡航速度を速めて集合場所へ向かいます。

 

 


江戸城 日比谷見附跡

 定刻通り、10時に探訪開始。

 本日は7名様のお客様が参加してくださいました。

 皆様、いつもありがとうございます。

 江戸城シリーズは今回が4回目で最終回ですが、皆勤賞の方が2名様いらっしゃいます。

 皆勤賞だからと言って何かが出るわけではありませんが、きっと忘れた頃に良いことがあると思いますよ。

 まずは、集合場所にある日比谷見附跡から見てみましょう。

 このように城壁が残っていますね。

 

 最初にお見せした地図の通り、家康入府の時点では、ここは「日比谷の入江」と言われる海でした。それを一生懸命埋め立てていき、徐々に江戸城や江戸の町が形作られていったのです。

 説明板に書いてある通り、当初は慶長19年(1614)に、熊本藩主・加藤忠広(清正の三男)が石垣を築造し、寛永5年(1628)には、仙台藩主・伊達政宗によって門の石垣が築造されました。

 

 説明板に日比谷村が出てきますが、日比谷の入江の西岸にあった村です。日比谷村は見附からはちょっと離れているので、門の名前は日比谷村があったから名付けられたというより、日比谷入江を埋め立てた場所だから日比谷門と呼んだと考える方が素直だと思います。

 日比谷見附も、往時は桝形構造になっていて、二の門である高麗門、一の門である渡櫓門があったのです。

 

 心字池は、堀の名残です。

 
 

 ※註:現地では口頭で説明しただけで分かりづらかったはずなので、図を作りました。

日比谷見附周辺想定図(稲用章作成)

 堀や門の位置、堀の幅などは厳密ではありませんので、あくまでもイメージとして見てください。

 日比谷見附の桝形は、大名小路曲輪側にありました。心字池が堀の名残であるというのは、この通りです。上図でも心字池に沿って土塁状の高まりが分かりますが、それが私たちが見た城壁です。

 日比谷見附跡の近くには、「伊達政宗終焉の地」という説明板が立っています。

 

 とくに何か目に見えるものがあるわけではありません。

 

 考えてみれば、政宗はああいう性格ですから、謀叛人として討伐されて滅亡してもおかしくない人でした。実際、ギリギリのラインで生き残った人生でしたが、野望を持ちながらも最後は幕府創業以来の重鎮として周囲から信頼され、また江戸期にずっと継続した仙台藩の礎を作った訳ですから、相当な人物であったことが分かります。

 秀吉も家康も政宗のことを極度に警戒していましたが、その反面で、彼らは意外と政宗のことを愛していたんじゃないかなと思います。複雑な男心です。

 ご案内はしませんが、この少し奥に「水飲み」というものもあります。

 

 明治のころからこういうものがあるということに、日本の文化レヴェルの高さを感じることができます。

 

 それでは、蒸し暑いですが、日比谷見附跡を出発して公園内を南下します。

 今まで気づかなかったのですが、日比谷公園内には所々に色々なものが展示してあるんですね。

 なんだろうこれは。

 

 バイキングの古代文字!

 

 完全に自分の知識の範囲外ですが面白い。

 おっ!

 石のお金がある!

 

 これは以前から気になっていたので本物が見られて嬉しい。

 

 大正14年(1925)に寄贈されたということですが、その時期はヤップ島が日本の委任統治領だった時代ですね。

 第一次世界大戦まではドイツ領でしたが、大正3年(1914)に始まった大戦で戦勝国になった日本が統治を任されたわけです。日本委任統治時代は、日本との定期便もあり、移り住んだ日本人もいました。

 日比谷公会堂。

 

 現在は再開未定の休業中だそうです。

 江戸城に使われた石も置かれています。

 
 

 さて、次は東京タワーの麓にある芝丸山古墳を目指しますが、しばらく道路を歩きますよ。

 

この続きはこちら

 

「江戸城を五街道から攻める」第4回「江戸城から東海道を攻め下る」

【2023年6月10日(土)】

江戸城和田倉門跡(開始前のソロ活動)

江戸城日比谷見附跡

芝丸山古墳

丸山貝塚

亀塚稲荷神社と弥陀種子板碑

亀塚(亀塚公園遺跡)

伊皿子貝塚遺跡

高輪大木戸跡

鈴ヶ森遺跡(鈴ヶ森刑場跡)

大森貝塚(大森貝塚遺跡庭園)

大森貝墟碑

 

 

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