芝丸山古墳|東京都港区 ~第97次AICT 開催報告 その2~

 


増上寺

 日比谷公園からは、ひたすら普通の道を歩いて芝丸山古墳を目指しますよ。

 この地図の通り、家康入府前は海だった場所です。

稲用章作成

 こう見ると、江戸期の東海道は日本橋を発すると、中世以前から地盤のしっかりしている江戸前島の尾根筋を通って、今の新橋駅の辺りまで行っているのが分かります。必然的に歩くのに適したルートなのでしょう。

 ところで、最近のAICTの街歩きのポリシーは、「のんびり」です。

 私はガイドの仕事を色々経験しましたが、AICTのように参加者同士が気心が知れている集団の場合、参加者同士で喋りながらゆっくりと歩くのが良いのかなと思います。

 日比谷公園から30分ほどかかって増上寺の前へやってきました。

 今回の現地講座はいつもと一緒で古代・中世がメインですから増上寺ではとくに何もありません。

 

 しかし、増上寺を無視する街歩きなんて将軍様もビックリですね。

 もし将軍にバレたら幕府から追討軍が発せられるかもしれません。

 

 まあ、私も幕府ですけど。

 目指す芝丸山古墳へは、増上寺の境内からショートカットできそうな気がするのですが、安パイで一旦道路へ出て普通の道を行きます。

 

 

112
芝丸山古墳

 おや、何かやっている。

 

 はしご車の体験かな?

 いいねえ。

 人ごみをかき分けて、芝公園内にある芝丸山古墳へ向かいます。

 この森の中に古墳は隠れているのだ。

画面左側に後円部が隠れている

 では、墳丘に登りますよ。

 結構比高差があります。

 

 はい、後円部に着きました。

 

 東京地学協会が建立した伊能忠敬の記念碑。

 

 忠敬が「日本測量の旅」の原点にしたのは、ここからほど近い高輪大木戸でしたので、東京地学協会は記念碑を芝丸山古墳の墳頂に建てたそうです。

 

 お客様曰く、東京地学協会の会長とある細川護立は、元総理の護熙さんのお祖父さんだそうです。

 ※註:帰宅後に調べたら、この東京地学協会って凄くて、歴代会長は能久親王、載仁親王、榎本武揚、徳川頼倫!

 我々が油断しているその隙に、後円部は園児たちに占拠されてしまいました。

 

 伊能先生、大人気だね。

 ところで、東京タワー古墳と呼ばれている芝丸山古墳は、改変を受けているとはいえ、東京の都会のど真ん中に大型前方後円墳が残っている稀有な例です。

 明治30年11月から翌年4月にかけて坪井正五郎が発掘調査をした時には、後円部から主体部は見つからなかったのですが、すでに江戸期には墳頂が3mほどスパッと削られていたため、その際に主体部は取り除かれてしまったと言われています。

 後円部中央にある竪穴式の主体部は、どの古墳でも大抵1.5mから2.5mくらい掘ると遺構に当たるため、3m掘って主体部がなくなってしまったという伝えには信ぴょう性があります。

 ただ、本当にそうであれば、江戸時代といえども記録を残している可能性があるのですが、そういう記録があることは聴いたことがありません。

 後円部から前方部を見ます。

 

 相当改変を受けていますから、現状で往時の様子を想像するのは難しいですが、後円部と前方部の比高差は結構あったんじゃないでしょうか。

 前方部を進んでみます。

 

 ライオンかと思ったら虎でした。

 

 昭和時代に自民党副総裁を務めた大野判睦の句碑だそうです。

 では、墳丘を降りて、説明板を見に行きましょう。

 

 芝丸山古墳は、1958年に測量調査が行われ、そのときの墳丘長は125mとの値が出ています。でも、現地説明板には106mとあります。ところが、現在の港区の公式見解では「112mと推定される」となっています。

 112mが真だとすると、測量で分かった125mというのは、測量を失敗しているということになりますが、13mもの違いは異常ですから、測量の失敗ではなく、墳丘をどこまでとするかの考え方の違いの可能性があります。

 あるいは、地形図を見ると前方部側の道路がかなり切り立っているため、どの辺まで古墳があったかどうかの判断の違いもあるのかもしれません。

 125mでも112mでも、107mの亀甲山古墳を抜いて、都内で優勝です。でも全国大会に出たら木っ端微塵の敗退となるでしょう。稲用調べでは、111m以上の古墳は全国に203基あるからです。

 遺物が乏しく、墳丘の改変も甚だしいため築造時期を特定するのは難しいですが、『東京の古墳を考える』(品川歴史館/編)によると、以前は5世紀前半と言われていたのが、最近では4世紀前半と考えられているとありました。

 根拠としては、後円部径が65mに対して、前方部墳端が40mという形状が一つ。後円部墳頂と前方部墳頂の比高差も現在の姿から想像しても結構あったように見えることが一つ。そして、埴輪が見つかっていないことが挙げられます。都内の古墳から埴輪が出土するのは4世紀後半からです。

 芝丸山古墳からは埴輪が見つかっているとの報告もあるのですが、かつてはこの周辺に10基ほどの群集墳(後期以降)が存在し、埴輪はその群集墳のものと考えられます。

 こちらの稲荷神社の参道側から見ると前方後円墳らしい感じがちゃんとしますよ。

 

 可能な限り引いて撮影。

 

 いいですねえ。

 なお、芝丸山古墳とその周辺の円墳を発掘調査した坪井正五郎は、墳丘をしっかり保存して、説明板を立てたり、模型などを置いて見学の便を計るように東京府に訴えていますが、結局ずっと放ったらかしにされ、いつの間にか円墳群は完全に消滅しました。

 芝丸山古墳だけが何とか残っているのがせめてもの救いですね。

 

この続きはこちら

 

「江戸城を五街道から攻める」第4回「江戸城から東海道を攻め下る」

【2023年6月10日(土)】

江戸城和田倉門跡(開始前のソロ活動)

江戸城日比谷見附跡

芝丸山古墳

丸山貝塚

亀塚稲荷神社と弥陀種子板碑

亀塚(亀塚公園遺跡)

伊皿子貝塚遺跡

高輪大木戸跡

鈴ヶ森遺跡(鈴ヶ森刑場跡)

大森貝塚(大森貝塚遺跡庭園)

大森貝墟碑

 

 

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