伊皿子貝塚遺跡|東京都港区 ~第97次AICT 開催報告 その5~

 


伊皿子貝塚遺跡

 危うく伊皿子貝塚をすっ飛ばすところでした。

 亀塚公園に戻り、再び尾根上の道を歩きます。

 今度は幽霊坂ですぞ。

 

 先ほど誤って降りた東側は東京低地で、西側もこのように下り坂になっています。

 

 台地上の尾根筋にあたる場所に古代・中世の道があることが良く分かります。

 伊皿子貝塚に着きました。

 

 貝塚以外の遺跡も見つかっているため、正確には伊皿子貝塚遺跡と呼びます。

 発音はなぜかずっと思い込みで「いざらこ」と喋っていたんですが、正確には「いさらご」のようです。こういう紛らわしいケースってたまにあって、例えば群馬県高崎市に保渡田古墳群がありますが、「ほどた」と「ほとだ」のどちらが正式なのか分かりません。地元の方と話していても、発音が二通りあるのです。

 さて、伊皿子貝塚は、昼前に見た丸山貝塚と並んで、港区を代表する貝塚です。ただし、こちらは完全に破壊されて、遺跡公園として整備されています。

 貝層の剥ぎ取りが展示してあります。

 
 

 「木炭の層」というのが書かれています。木製品は基本的に地中の水分のない場所では溶けてなくなりますが、炭化していると残りが良いです。発掘現場では、小さな塊を含め、よく炭が見つかります。

 造り方はともかくとして、縄文住居も再現しています。

2019年9月3日撮影

 ほとんどの人が中を覗いてビックリする施設です。

2019年9月3日撮影

 皆さんからは、「せめて子供に服を着せてあげたらどうか」との意見が出ました。

 今現在、縄文人の格好を再現するときは、このような原始人風なものではなく、バッチリ服を着こなしてアクセサリーで身を飾ったモダンな縄文人になります。例えばこんな感じ。

函館市縄文文化交流センターにて撮影

 ともかく、こういった展示があることから、昭和時代の港区は、歴史を後世に伝えることに力を入れていたのが分かります。もちろん、昭和時代だけでなく、現代でも5年前の2018年に郷土歴史館をオープンさせていますし(元々は田町にあったのが移転してパワーアップ)、何というか、港区からは「やる気」を感じることができます。

港区立郷土歴史館(2019年9月3日撮影)

 港区立郷土歴史館には今日歩いている遺跡に関しての展示があるので、本当は同時に案内したかったのですが、行程上無理ですので、皆さん各自で訪れて港区の遺跡について勉強してみてください。

 それはそれとして、伊皿子貝塚では、縄文時代については、ハート型土偶ちゃんが説明してくれます。

2019年9月3日撮影

 このハート形土偶ちゃんはここからは出ていませんよ。この子のモデルになったのは群馬県東吾妻町郷原出土の土偶ですから、群馬県から応援に駆け付けたと思ってください。

郷原出土ハート形土偶のレプリカ(群馬県埋蔵文化財調査センター 発掘情報館にて撮影)

 古墳時代に関しては、踊る埴輪くんが説明してくれます。

2019年9月3日撮影
2019年9月3日撮影

 踊る埴輪のモデルになった埴輪もここからは出ていません。これは埼玉県熊谷市の野原古墳出土の埴輪です。

東京国立博物館・本館にて撮影

 なお、補足すると、日本でのカマドの普及は古墳時代中期の5世紀からですので、古墳時代前期の住居には基本的にカマドはありません。

 まあ、細かいことは良いのです。

 東京の都心にこういう古代史をテーマにした公園があるということが私には嬉しい。

 ところで、伊皿子貝塚は、堀之内式土器が共伴していることから縄文時代後期の貝塚であることが分かります。堀之内式土器は例えばこんな感じの土器です。

東京都北区・西ヶ原貝塚出土の堀之内式土器(飛鳥山博物館にて撮影)

 午前中訪れた丸山貝塚も貝殻ばっかりの貝塚でしたが、伊皿子貝塚も同様に、土器や石器が少なく、また獣骨も少ないという特徴があります。

 見つかった貝は82種類に及びますが、とくにマガキとハイガイが多いです。カキが美味しいのは私たちも良く知っていますが、ハイガイというのはあまり知られていないかもしれません。暖かい海に生息する貝で、現在は当時よりも海水温度が下がってしまったため、瀬戸内以南に生息しています。赤貝の仲間で美味しいそうですよ。

 なお、伊皿子貝塚遺跡では、弥生時代中期後葉の宮ノ台式期の方形周溝墓が2基見つかっていますが、同じ時代の住居跡は見つかっていません。同じ時代の住居跡は、先ほど訪れた亀塚公園遺跡で見つかっていますので、こちらはそこの住人の墓域であった可能性が高いです。

 

 では、次は古代から近世に飛びますよ。

 

 


高輪大木戸跡

 伊皿子貝塚を出た後は、武蔵野台地から東京低地に降ります。

 低地に降りると、そこは近世の東海道です。

 ほどなく、石垣が見えてきました。

 高輪大木戸跡です。

 このへんも大規模な工事をしていて、警備員さんが歩く人たちを誘導しているのですが、私たちの姿を見て「大木戸の見学ですか?」と尋ね、歩道とは違う方向に誘導してくれました。

 さすが、遺跡の前で勤務しているだけありますね。

 

 到着すると男性数人のグループが熱心に説明板を読みながら何か話しています。

 こうやってたまに見学に来る人がいるため警備員さんも要領を得ているのかもしれません。

 往時は、東海道を両側から挟む形で石垣がありましたが、現在残っているのは海側(東側)のみです。

 

 では、私たちも説明板を読んでみましょう。

 

 今日は私たちも朝から東海道を歩いてきましたので、いよいよここから先は城外だと思うと感慨深いものがありますね。

 いや、勘違いです。

 全然東海道を歩いてきていませんでした。

 ここを通過するときだけ、気分は東海道歩きです。

 

 石垣に埋め込まれる形で古い説明板もありました。

 

 こちらにはちゃんと伊能先生の話が記されていますね。これで、芝丸山古墳とここの話が繋がりました。

 では、このまま東海道を南下して、京急品川駅へ向かいましょう。

 進行方向右手に武蔵野台地があるのですが、グランドプリンスホテル高輪および新高輪がある辺りが、高縄原古戦場跡です。

 

 大永4年(1524)、小田原城を本拠地とする北条氏綱は、武蔵を手中に収めるべく、扇谷上杉朝興の勢力範囲である江戸城を攻略するために北進してきました。両軍は高縄原で激突しましたが、その場所は、港区高輪3丁目辺り、つまり上述の場所周辺と言われています。

 合戦に勝利した氏綱は江戸城を落とし武蔵統一への大きな足掛かりとしました。

 両軍ともさきほどまで私たちが歩いていた台地上の道を利用したはずです。当時、今いるこの低地側は、海岸が迫っていて軍隊が通行するには不適格な場所だったと考えられます。

 ちなみに、ホテルが古戦場跡にあるというのは、宿泊客にとってはあまり気持ちが良いものではないと思うので内緒にしておいてください。合戦から500年が経ち、一般的な霊はもう現れないので心配することはありませんが、気にする人は気にしますからね。

 なお、現地には古戦場を示す標柱や説明板はありません。

 

この続きはこちら

 

「江戸城を五街道から攻める」第4回「江戸城から東海道を攻め下る」

【2023年6月10日(土)】

江戸城和田倉門跡(開始前のソロ活動)

江戸城日比谷見附跡

芝丸山古墳

丸山貝塚

亀塚稲荷神社と弥陀種子板碑

亀塚(亀塚公園遺跡)

伊皿子貝塚遺跡

高輪大木戸跡

鈴ヶ森遺跡(鈴ヶ森刑場跡)

大森貝塚(大森貝塚遺跡庭園)

大森貝墟碑

 

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