弥生式土器発掘ゆかりの地|東京都文京区 ~第86次AICT 開催報告 その1~

 AICTでは、2023年4月1日(土)に、「江戸城を五街道から攻める」シリーズの第2回として、「中山道から江戸城を落とす」を開催しました。

 

 第1回目は、日光道中でしたが、今回は中山道です。そして例のごとく、実際には五街道は歩かず、「だいたい中山道のルート」という意味のタイトルです。

 

 


根津神社|東京都文京区

 今日は、地下鉄南北線の東大前駅に集合です。

 今回は7名様のご参加を頂きました。

 皆様、いつもありがとうございます。

 天候は快晴。今のところ、雲一つない青空と言われる類の気象状態です。

 最初の探訪地は根津神社。

 根津神社には重要文化財の建物群が残っているため参拝する価値が高いです。

 我々は裏側(北側)から境内に入りました。

 

 早くも外国人を含めて多くの参拝客で賑わっています。

 

 ブロンドの髪の小ちゃな異国の女の子が走り回っていて、皆から「可愛い」と注目されています。

 

 扁額。

 

 根津神社の祭神は、須佐之男命・大山咋命・誉田別命です。

 神社を創建したのは、日本武尊。その時は、千駄木にありました。

 東京はヤマトタケルに関連する神社が多くて、大きく分けて、ヤマトタケルが創建したという伝承を持つ神社と、後世にヤマトタケルの徳を慕って地元の人が創建したといわれる神社に分けられます。ヤマトタケルが東京へやってきて、果たして神社を創建することがあったのか?

 こういった心の問題に関しては、歴史学を元に述べるのは野暮な話です。

 ただ、東京にヤマトタケル伝承が多いというのは注目すべきことで、出雲の神様が多いという事実とともに、その裏に潜んでいる史実を探求するのは面白いテーマだと思います。

 ヤマトタケルが創建してから大分時間が経って、文明年間(1469~87)には太田道灌が社殿を建て、江戸期の宝永2年(1705)には、第5代将軍徳川綱吉が、兄綱重の子綱豊(6代家宣)を養嗣子に定めた際に現在地に遷座し、天下普請によって大造営を行いました。

 根津神社で特に見ていただきたいのが建物の数々です。

 

 宝永3年(1706)に完成した権現造りの本殿と幣殿・拝殿・唐門・西門・透塀・楼門の7つ全てがその後の災害や東京大空襲でも破壊されずに現存しているところが都心の神社としては稀有な存在だと思います。7つの建物はすべて国の重要文化財に指定されています。

 

 今日は徳川家宣胞衣塚へは行きません。イヴェント開催期間のようで有料になっているように見えました。

徳川家宣胞衣塚(2017年2月26日撮影) 
徳川家宣胞衣塚説明板(2017年2月26日撮影)
 

 現在の根津神社の場所を見ると、古代は谷田川の氾濫原だと考えられるため、社伝のとおり、元々この地にあったわけではないことは地形からも理解できます。元地に関しては、私は千駄木ということしか分からず詳細は不明ですが、千駄木という住所は台地上と低地に分かれますので、神社は台地上にあったことは間違いないはずです。

 

 


弥生式土器発掘ゆかりの地|東京都文京区

 住宅街をニョロニョロ歩いていると、サトウハチロー旧居跡がありました。

2017年2月26日撮影

 私はこちらのジャンルはまったく疎いのでとくに説明はできないのですが、20代の頃に岩手県北上市にしょっちゅう行っていて、向こうにサトウハチロー記念館があり、そのときから何となく気になる存在ではあります。

2017年2月26日撮影

 サトウハチローに関しては、これ以上語るべきものは持ち合わせていません。

 適当にお茶を濁しながら歩いていると、ありました。

 

 「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑です。

 

 今はもう定着している弥生時代という名前の元になった土器が見つかった場所は、この近くであったということです。しかし、すでにその正確な場所は分からなくなっています(以降、本稿については、主として『シリーズ「遺跡を学ぶ」050 「弥生時代」の発見 弥生町遺跡』<石川日出志/著>を参照しています)。

 大森貝塚の発見から7年後の明治17年(1884)3月、東大生の坪井正五郎(1863~1913)と白井光太郎(1863~1932)、それに東大予備門生の有坂鉊蔵(1868~1941)の3名は、東大裏手の向ヶ丘弥生町の貝塚に発掘に出かけました。そこで有坂が発見した壺が、のちに「弥生式土器」と呼ばれることになる土器です。

 有坂はその見事な土器を先輩の坪井に託しました。のちに日本を代表する考古学者になる坪井もこのときはまだ20代前半です。坪井は5年もかけて研究して、明治22年に報告しました。この時代はまだ、弥生時代という定義はなく、旧石器時代も日本では証明されていませんから、漠然と「石器時代」というイメージで考えられていました。

 坪井は、さらに3年後の明治25年には、北区の西ヶ原貝塚を発掘し、そこでは縄文土器とは違う土器群があり、以前報告した弥生町の壺形土器に似ているものがあるという認識をもったようです。西ヶ原貝塚もAICTで訪れましたね。

東京都北区・西ヶ原貝塚(2023年1月25日撮影)

 その頃から、東大人類学教室の人びとは、弥生町の壺形土器やそれに似ている土器群は、見つかった地名を取って「弥生式」と呼び始めました。明治29年には、蒔田鎗次郎(1871~1920)が駒込の自敷地内で発掘した土器群を「弥生式土器」の名で報告し、それが普及していき、従来から知られている縄文時代と古墳時代の間には、異なる文化の時代があることが全国の発掘調査例の増加で次第に分かってきて、弥生時代と呼ばれるようになったのです。

 ただし、その後、土器が発見された場所は分からなくなってしまったのです。第一発見者の有坂は、モースから直接教えを受けた人物ですが、東京大学工科大学に進み、造兵学の専門家となって、考古学からはまったく手を引いてしまったのです。そして、発見から39年後の大正12年に講演した時は「正確な位置は解りません」と語っています。

 一方、坪井の弟子である、これまた著名な学者の鳥居龍蔵(1870~1953)は、坪井はモースのことが嫌いだったようにとれる発言をしています。坪井は、アイヌの民話に出てくるコロボックルを実在と信じており、埼玉県吉見町の吉見百穴は、コロボックルの住処だと主張して譲りませんでした。そういう激しい性格のため、モースに対してもライバル心を露わにしてしまったのでしょうか(ちなみに、徳島市出身の鳥居は小学校に1年間通っただけでしたが、アジア・シベリアを股にかけて踏査し、東大助教授、つづいて國學院大學教授になった非常にアグレッシヴな研究者です)。

 坪井は、東大で初めて人類学を学んだ学生の一人ですが、人類学と言いつつも考古学を重視し、自身で「東京人類学会」を主宰し、「遠足」と称して、都内近郊の遺跡に掘りに出かけていました。ただし、その遠足は、大多数の人間で遺跡に訪れて短時間で一気に掘り進めるため、「乱掘」といわれることもあり、現代の考古学者からはあまり良い印象が持たれていないようです。

 ところで、弥生式土器発掘ゆかりの地には、近くにある国史跡・弥生二丁目遺跡の説明板があります。 

 

 ここに書いてある通り、現在は、東大武田先端知ビルの敷地内にあるのですが、フラッと入って見学することができるので行ってみましょう。

 

 


弥生二丁目遺跡|東京都文京区


 武田先端知ビルの敷地内に入ってすぐの場所に説明板があります。

2017年2月26日撮影

 ここには弥生町遺跡と出てきますが、国史跡・弥生二丁目遺跡を含めた、その周辺の遺跡の呼び名です。弥生町遺跡という言い方は、弥生二丁目遺跡の範囲内にある環濠集落とその南西側に展開する方形周溝墓群を含めた言い方です。

 こちらの写真を見ると、小さな方形周溝墓であったことが分かりますね。

2017年2月26日撮影

 タンデム加速器研究施設(MALT)でPIXE分析(荷電粒子励起X線分析 Particle Induced X-ray Emission)ですよ、分かりましたか?

 私にはわかりません。

 さすが東大というべきか、ここまで専門的なことを書いてる説明板は全国的に見ても極めて珍しいです。

 さらに奥まで足を踏み入れると、国史跡・弥生二丁目遺跡があります。

 

 ここにもちゃんと説明板があります。

 

 既述した通り、弥生二丁目遺跡では、環濠集落が見つかっています。

 武蔵野台地の辺縁部には意外と多く環濠集落が作られていて、北区の飛鳥山遺跡の環濠集落がそれらのなかでも大規模なものであることは、飛鳥山の現地講座の際にお話ししました。

 この場所は、武蔵野台地のもろに辺縁部ではありませんが、辺縁部に近く、谷田川の谷に臨んだ台地の上で、今見ても結構な高低差があることが分かります。

 

 ところで、根津神社からここ弥生二丁目遺跡までの間は、2017年3月11日にクラツーでご案内しています。自身が企画した街歩きとしては第2段で、飛鳥山から上野公園までのコースでした。私は昔から川の流れに拘っており、谷田川という元々の石神井川の流路を歩くツアーでした。

 それでは、次は東大へ参りましょう。

(つづく)

 

「江戸城を五街道から攻める」第2回「中山道から江戸城を落とす」

【2023年4月1日(土)】

根津神社

弥生式土器発掘ゆかりの地

弥生二丁目遺跡

④ 三四郎池

⑤ 境稲荷神社

⑥ 湯島天満宮

⑦ 妻恋神社

⑧ 神田明神

⑨ 江戸城筋違門跡

⑩ 江戸城一橋門跡

⑪ 江戸城平川門

⑫ 江戸城本丸

⑬ 江戸城北桔梗門

⑭ 江戸城田安門

 

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