群集墳あれこれ

最終更新日:2024年1月31日

 群集墳というのは、その名の通り、古墳が群集しているものを言います。

 似た言葉に古墳群があります。群集墳は古墳群ですが、古墳群が必ずしも群集墳というわけではありません。

 「群集」がキーになりますが、どの程度の密度があれば「群集」と言えるのか?

 基準となる数値的な物はなく、あくまでも見た人の感覚です。

 埼玉古墳群は大型古墳が狭い範囲に集まっており、私的には群集していると思いますし、奈良県の馬見丘陵上には大型古墳がひしめいています。しかし、そういうものは群集墳とは呼びません。

 大型古墳ではダメで、小さい古墳の集まりが群集墳です。

 では、どの程度だと大型で、どの程度だと小型なのでしょうか。それも見た人の感覚です。

 小さいのが沢山ある中に、ちょっとだけ大きいのが混ざっているくらいだと許されます。

 どの程度だったら許せるのか、その匙加減は、あくまでも感覚です。

 群集墳は、数十基とか、多いと1000基以上の古墳が群集していますが、100年間とか150年間とか、それほど長くない期間でそれらが構築されます。

 どの程度の期間だと短くて、どの程度だと長いのか。それは、あくまでも感覚が決め手です。

 例えば、6世紀の古墳が大量にある中に、4~5世紀の古墳が数基見られる、というのは許容範囲で、これを決めるのも感覚です。

 「感覚」ばっかり言っていますが、感覚を養うためには、たくさんの古墳を見つつ、たくさんの本を読んで勉強することです。

 5世紀の群集墳を初期群集墳と言い、この時期から群集墳が国内にポツリポツリと現れ、全国的に見ると6世紀が群集墳の盛期です。

 つまり、とくに6世紀頃には、社会的地位が極端に高くなくても古墳の造営が可能になってきた社会へと世の中が変化したわけです。

 6世紀が主体のものを後期群集墳、7世紀が主体のものを終末期群集墳と呼びます。時代的に見ると、横穴式石室の普及とも関連がありそうですし、横穴墓の普及とも関係があると思いますが、本稿では横穴墓については言及しません。

 それでは、全国の群集墳の中で私が訪れたことがあるものを簡単にご紹介します。ただし、群集墳と言っても、たった1~2基見ただけというものもあります。

 


新原・奴山古墳群|福岡県福津市

 群集墳は、固有の氏族と結びつけて研究されることが多いですが、新原・奴山(しんばる・ぬやま)古墳群は、宗像氏の奥津城と考えられています。5世紀から6世紀にかけて築造され、帆立貝形が1基、前方後円墳が4基、円墳が35基、方墳が1基の合計41基の古墳が残存しており、すでに破壊されたことが確認されている古墳もあることから、実際にはもう少し多くの古墳が造られました。

 研究者によっては、5世紀と6世紀前半の古墳を見る限りでは群集墳とは言えないと判断し、6世紀後半の円墳群を群集墳として評価するかもしれませんが、とりあえず群集墳として説明を続けます。

 上の図を見ても分かる通り、5世紀代には古墳群最大の22号墳が造られました。帆立貝形ですが、前方部は削平されており、現地で確認すると何となくその形跡が分かる程度になっています。墳丘長は75~80mに復元されます。

 22号墳の墳頂には、以前は裁縫の神様が祀られていましたが、数年前に撤去されました。古墳群の近くには宗像大社の末社として縫殿神社が存在し、地元の方の話では墳頂の祠はその分社ということだったので、撤去というよりかは、本社に戻ってもらったと考えれば良いと思います。

 「応神紀」によると、応神37年、阿知使主と都加使主を呉(中国南朝)に遣わせて、縫工女を求め、その際呉王は、縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織を与えました。阿知使主らは4年後に帰朝しましたが、そのとき宗像大神が工女らを欲しがったため、兄媛を大神に奉りました。

 この話で宗像大神とあるのは、宗像の王のことでしょう。この当時、王権は外国へ渡る際には、海人勢力の中でも宗像勢力と独占契約を結んでいたと私は考えています。似た話が雄略紀にもあるのですが、応神37年にしても雄略朝にしても5世紀の範囲に収まる時代と考えられますので、そういう伝承に結びつけられた神様が5世紀の古墳の墳頂に祀られていたというのは大変面白いことだと思います。

 なお、福津市の担当者と以前話したときに、22号墳は整備する計画があると話していたので、神様を移したのは本格的な調査をするためではないかと期待しています。

 5世紀後半には円墳としては古墳群最大の径35mの25号墳も築造されました。

 さらに、5世紀代には前方後円墳の1号墳も築造されましたが、道路の建設によってほとんど壊滅状態で、石室に使ったであろう石が墳丘上に散乱している無残な姿になっています。

 6世紀前半には、3基の前方後円墳が築造され(12号墳、24号墳、30号墳)、この時点ではまだ群集墳の態は成していません。

 30号墳は墳丘長54m。

 

 

 6世紀後半になると一挙にたくさんの円墳が造られ、誰が見ても群集墳と認めてくれるような状態になります。

 古墳群南東側には駐車場とトイレ、それに全体の説明板があり、古墳群を見渡すことができます(上掲図に「展望所」とある場所)。ボランティアガイドもいるため、新原・奴山古墳群を訪れる際には最初に行くべき場所ですが、そこから見渡すと、6世紀後半に一直線に築造された34号墳から43号墳まで10基並んでいるのが見えます。

 また、ここからは海を臨むことができます。

 往時の海岸線は現在よりも内側にあって、海だった場所は江戸期に黒田藩が埋め立てて塩田とし、その後、水田になって今に至ります。

 


浄楽寺・七ッ塚古墳群|広島県三次市

 広島県立みよし風土記の丘にある古墳群で、浄楽寺古墳群と七ッ塚古墳群を併せて国指定史跡となっています。5世紀から6世紀にかけて築造された群集墳で、群集墳としては最古段階のもので貴重です。

 みよし風土記の丘にある広島県立歴史民俗資料館の見学を終え、山を登って行くと最初は浄楽寺古墳群に入ります。帆立貝形2基、方墳4基を含む、円墳を中心として合計116基の古墳があり、古墳ポコポコ地帯が眼前に展開します。

 

 つづいて七ッ塚古墳群のエリアに入りますが、七ツ塚古墳群には、前方後円墳を含め円墳を中心として60基の古墳があります。こちらの方が大きめの古墳が多くヴィジュアル的に良いです。

 これら総数176基の古墳の内、発掘調査が行われているのは、浄楽寺1・12・37・61・63号墳の5基です。

 奥の方まで行くと、最高所に5世紀に築造された径28mの円墳である七ッ塚15号墳があります。

 群集墳の築造順は、一般的には、丘の最高所に最初の古墳が造られ、その後、尾根上などに造られていきますから、その法則を考えると15号墳は古墳群築造の端緒となった古墳の可能性があります。

 浄楽寺・七ッ塚古墳群の特徴は、被葬者たちがその被葬者を高祖と仰ぐような大型前方後円墳が近くに無いことで(広島県全域を見渡しても大型古墳は非常に少ない)、小さな古墳で構成されているところです。

 前方後円墳は1基のみで(七ッ塚9号墳・29.5m)、帆立貝形古墳が3基(浄楽寺1号墳・27.9mほか)。最大の古墳は浄楽寺12号墳で、径45mの円墳です。

 きちんと園路が整備されていて歩きやすいので天気の良い日はとくに気持ちよく歩けます。歴史民俗資料館の見学を含めて、2時間確保できれば、七ッ塚15号墳まで行って戻ってこれるでしょう。

 


平尾山古墳群|大阪府柏原市

 河内三大群集墳のひとつです。古墳の数はおそらく日本最大で、これまでに1407基が確認されています。よくもまあ、歩いて確認したものだと呆れるといったら失礼ですが、驚くべき仕事です。

 平尾山古墳群の特徴は、6世紀から造墓活動が開始された後、7世紀代になっても盛んに古墳が造られたことです。

 被葬者像としては、副葬品としてミニチュア炊飯具土器が見つかることから、渡来系の人びとと想定されています。

 


高安古墳群|大阪府八尾市

 河内三大群集墳のひとつです。6世紀代に築造されました。大正時代には、565基の古墳があったと記録されていますが、現在は230基が残っています。

 


一須賀古墳群|大阪府河南町

 河内三大群集墳のひとつです。近つ飛鳥風土記の丘にあり、近つ飛鳥博物館の裏山にあります。総数260基あまりの古墳から構成されます。

 

龍王山古墳群|奈良県天理市

 全体の様相は判明していませんが、龍王山の西側斜面に、1000基ほどの古墳があると考えられています。その中には、高塚古墳だけでなく、横穴墓も含まれており、それぞれ500基くらいあると考えられています。高塚古墳に関しては、径10m前後の古墳(円墳が多数派と考えられる)がほとんどで、築造時期は、6世紀中頃から7世紀前半にかけてで、6世紀後半がピークです。一方、横穴墓は、半地下式のドーム形がほとんどで、6世紀後半から7世紀末まで造られ、7世紀前半がピークです。

 龍王山古墳群の西側麓には、行燈山古墳や渋谷向山古墳などの大王墓が築造され、王権の墓域が展開しており、それらとの関連を考える研究者がいますが、大王墓と龍王山古墳群では築造時期がかなり異なることから、直接的な関係はありません。

 龍王山のピーク2か所はそれぞれ戦国期十市氏の龍王山城の郭跡で、そこへ登るための登山道がありますが、ハイキングに慣れていないと登るのはちょっと大変かもしれません。整備らしい整備はされておらず、説明板はおろか、「○号墳」といった立て札すらないです。つまり、古墳としてはほとんどナチュラルなままです。しかしそうは言っても、石室に入れる古墳が沢山あり、石室好きには堪らないと思うので、興味がある方は頑張って登ってみましょう。

 また、龍王山古墳群の面白いところは、場所によっては高塚古墳と横穴墓がごちゃ混ぜになって造られていることです。おそらく、一般的なイメージとしては、高塚古墳が造られる場所と横穴墓が造られる場所は異なると思うのですが、龍王山古墳群では、面白い景観を見ることができます。

 山頂からの眺めは最高に素晴らしいので、天気の良い日の午前中に登ることをお勧めします。

 AICTで2022年4月16日に訪れ、下山後は、「もう二度と登りたくない」と思いましたが、少し時間が経ったらまた登りたいと思うようになりました。

 一緒に登ってみませんか?

 


新沢千塚古墳群|奈良県橿原市

 新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群は、約600基の古墳から構成され、築造時期は4世紀後半から6世紀後半までで、とくに5世紀後半から6世紀前半に多くの古墳が築造されました。

 

 新沢千塚古墳群は、ほとんど小古墳によって構成されますが、現地説明板で述べられている通り、すぐ近くには5世紀前半に築造された列島最大の方墳である桝山古墳(一辺90m)や、6世紀前半築造の墳丘長138mの前方後円墳である鳥屋ミサンザイ古墳が築かれていることから、それらとの関係が気になります。

現地説明板を撮影

 古墳群で特に著名な古墳は、126号墳です。

 

 5世紀後半に築造された22m×16mの長方墳で、ペルシャ産のガラス碗や火熨斗(ひのし=アイロン)など、貴重な遺物が発見され、上野のトーハク平成館にコーナーがあります。古墳群近くの歴史に憩う橿原市博物館にはそのレプリカが展示されていますが、橿原市の方が展示の仕方が美しいです。

 

石光山古墳群|奈良県御所市

 石光山(せっこうざん)古墳群は、5世紀後半から7世紀前半にかけて造られた約100基の古墳からなります。造墓のピークは6世紀前半です。

 独立丘の上に位置し、丘の上はすべて古墳という趣でしたが、そのうちの西半分の52基が調査されたあと破壊されて住宅地になっています。東半分は山のままで、その中に入ると古墳らしきものがあったり、大きな花崗岩があったりしますが、説明板も無く、正直よく分かりません。

 

 探訪後に『石光山古墳群と忍海』(葛城市歴史博物館/編)をゲットしました。該書は石光山古墳群について詳しく解説しており、石室に入れる古墳もあるようなので、機会があれば再訪したいと思います。

 

巨勢山古墳群|奈良県御所市

 約700基の古墳からなります。5世紀前葉に墳丘長238mの超大型前方後円墳である室宮山古墳が築造され、その頃から室宮山古墳の南側丘陵上に群集墳の築造が始まります。7世紀中葉まで築造が続きますが、ピークは6世紀中葉です。

 巨勢山古墳群は支群ごとの個性が強く、埋葬主体は粘土槨、木棺直葬、横穴式石室、箱式石棺直葬があります。

 御所市文化財展示室に展示がありますので、室宮山古墳とともに見学をお勧めします。

 


岩橋千塚古墳群|和歌山県和歌山市

 Coming Soon!

 


龍角寺古墳群|千葉県栄町

 龍角寺古墳群は関東地方を代表する群集墳で、6世紀第2四半期に101号墳が築造されたのを皮切りに、7世紀まで造墓活動が行われました。数に関しては、白井久美子氏は、龍角寺古墳群の近隣に展開する上福田古墳群と大竹古墳群を合わせて、合計152基の古墳を一体の古墳群として認識しています。

龍角寺101号墳

 龍角寺古墳群には、他者から隔絶した古墳が領域内にあります。例えば、一辺が78mもの方墳である岩屋古墳がありますが、方墳としては、奈良の桝山古墳についで全国で3番目の規模です。また、もう一基、墳丘長78mの前方後円墳である浅間山古墳も築造されています。

 他の群集墳と異なる大きな特徴は、前方後円墳が多数含まれていることです。一般的には、前方後円墳はその地域を代表するような有力者がヤマト王権の許可を得て築造するものと理解されていますが、龍角寺古墳群に存在する多数の小型前方後円墳を見ると、そういった従来の考え方が通用しないのではないかと考えられるのです。

 龍角寺古墳群の被葬者に関しては、印波国造とその一族が推定されます。

 さらに詳しくは、本サイト内の「房総の古代史」内「龍角寺古墳群」をご覧ください。

 

3~4世紀の群集墳

 さて、ここで問題なのは、実は、3世紀半ばから4世紀にかけての前期にも群集墳と呼べそうなものがあることで、それについて言及されることがあまりないことです。AICTでも行きましたが、埼玉県熊谷市の塩古墳群なんかがそうです。学界的にはそういった前期の「群集墳のようなもの」には、名前が付いていないのです。

 結局そういうのは、弥生時代の方形周溝墓の流れと捉えることもできます。方形周溝墓こそ、群集していますからね。

 つまり、4世紀の時点では、古墳を造ることができる社会的に最も高い身分の人たちの下に、方形周溝墓や「方形周溝墓のような古墳」を作る人たちがいたのです。

 多くの古墳研究者は、前者に当てはまる「首長墓」と言われるような大型の古墳に関心がありますが、「方形周溝墓のような古墳」も非常に大事で、方形周溝墓の研究と群集墳の研究は繋がると考えます。

 

初期群集墳と後期群集墳

 5世紀に造られた群集墳のことを初期群集墳と呼び、6世紀に造られた群集墳のことを後期群集墳と呼ぶことは既述しました。

 以降、『古代を考える 継体・欽明朝と仏教伝来』所収「群集墳とヤマト政権」(林部均/著)に依拠しながら述べると、初期群集墳と後期群集墳では様相が異なります。

 初期群集墳は5世紀と言っても中頃から造墓が開始され、数は十数基から二十数基程度です。古墳によって副葬品は格差が認められ多彩です。こういった群集墳は、上位権力者、例えば奈良盆地では、ヤマト王権によって墓域が設定されたと考えられ、在地の有力者が勝手に場所を確保して古墳を造り始めたわけではないとします。

 そしてその被葬者像としては、武具が多いことから武的な役割を負った人びとであると想定できます。

 5世紀末から6世紀初頭になると、後期群集墳の造墓活動が開始されますが、上述した巨勢山古墳群などの巨大古墳群は、一見すると一つの氏族の共同墓地的なものに見えます。しかし、よく見ると、その中の一部は5世紀代の初期群集墳であったりします。

 たまたま、もともと初期群集墳があった場所に6世紀になっても引き続き群集墳が造られたため、一つの勢力がそのまま継続して同じ場所に古墳を造り続けたように見えますが、実際には、初期群集墳の人びとと後期群集墳の人びととは系譜が繋がらない可能性が高いです。

 例えば、上述した新沢千塚古墳は、4世紀後半から築造が開始されるという群集墳としては異例の早さですが、後期に造られた古墳は、それ以前にあった古墳を破壊してまで造っていることがあります。もしそこに自分たちの先祖の墓があると考えているならば、墓を破壊することはないはずで、パッと見は同じ古墳群に見えますが、実態的には後から来た人たちは、前からいた人たちとは違う氏族であるのです。石光山古墳群でも古い古墳を破壊して新しい古墳を造っています。

 さて、このように後期群集墳を造った人びとは、初期群集墳を造った人びととは違う人びとであると考えられるわけですが、後期群集墳の特徴は、副葬品が均質なことです。そして、その数も数百基というとてつもない数になることがあることです。

 

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